詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トルーマン・カポーティ『真夏の航海』

2006-11-07 14:24:16 | その他(音楽、小説etc)
 トルーマン・カポーティ真夏の航海』(ランダムハウス講談社、安西水丸訳)(2006年09月13日発行)。
 トルーマン・カポーティの「失われた処女作」という。夏休み、ひとりニューヨークに残った少女の恋が描かれている。不安定な精神が、繊細さゆえに強靱なもの、乱暴なものにかわる。その揺れ動きがせつない。「詩」が、そこにある。唐突に立ち上がってくる現実、リアリティーというものが。
 たとえば、主人公の少女が駐車場で働く恋人を探す場面。

 クライドは車のなかで眠っていた。車の屋根は降ろされており、バックシートに潰(つぶ)れたように眠っていたので彼女はそこに来るまで彼を見つけることができなかったのだ。ラジオからはその日のニュースが流れ、彼の膝の上には探偵小説が開かれたままだった。

 彼の肉体は眠っているとしか描写されない。手の形も足の形も首の形も顔の向きさえも描写されない。そのかわり膝の上に開かれた探偵小説が描写される。それが彼の肉体として出現してくる。少女は彼が探偵小説を読むことをこのときになってはじめて知ったのだろう。(というようなことは、くどくどとは書いていない。読者の想像にまかされている。)この唐突さがいい。他人が唐突に少女の肉体の中に、肉体そのものとして存在し始める感じが、とてもよくわかる。
 カポーティ特有の、精神と現実の小さなものがぴったりと重なり合って、その結果として、こころそのものを揺さぶる衝撃になる、という描写は随所にある。恋人が唐突に「俺は婚約しているんだ」と告げる。そのとき、

 キッチンの小さなできごとは一瞬グレディを動転させた。時間は止まり、あたりは真白くなった。
 温度計の赤い管、スイス製のカーテンを這(は)っている蜘蛛の光、蛇口にぶらさがったまま落ちないでいる水滴、彼女はそれらを自分の壁のなかに折り込んだ。

 「蛇口にぶらさがったまま落ちないでいる水滴」がすばらしい。少女の感情そのものに見えてくる。感情はいつでも現実を通ってやってくる。あるいは現実のなかへ入り込んで手触りのあるものになる。形になる。目に見えるものになる。
 カポーティのことばのなかには、感情がものに(存在に)「なる」、その瞬間、生成の瞬間の濃密さがいつも詰まっている。
 だからこそ、たとえば次のような不注意な訳文が気になる。56ページの6行目以降。

彼女は煙草に火を点けるのが好きになった。グレディは自分との間で裸になったように揺らめいている細い炎のなかに、誰かに気づかれるかもしれない自分の秘密があるようにおもえて、に興奮した。

 「おもえて、に興奮した。」ここに何が欠落しているのか。「ひそかに」と考えると意味は単純につながってしまう。私には「ひそかに」以外のことばを期待した思いがある。
「ひそかに」などはなくて、「あるようにおもえて、興奮した」と直接つづいた方が「ひそかに」があるときよりもときめきが伝わってくる。欠落していることばがあるなら「ひそかに」以外であって欲しいと思う。

 原文を読まれた方がいましたら、実際はどうなっているかを教えてください。

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堀内みちこ『小鳥さえ止まりに来ない』

2006-11-07 13:05:50 | 詩集
 堀内みちこ小鳥さえ止まりに来ない』(思潮社)(2006年10月07日発行)。
 「死んだふりして」の最終連。

爆発したい気持ちをエプロンに包んで
こうして穏やかで落ち着いた大人の女でいるのって
実は大変な努力がいるのよ
死んだふりしていると知っているのは
いまきざんだキャベツかもしれない
そら ガスに火をつけたわ
フライパンの機嫌をうかがい
平凡なキャベツを
盛大なご馳走にしあげてみせますわ

 この詩に限らないが、堀内のことばの動きには料理でいう「手順」が省略されすぎている。たとえば、この詩ではキャベツを料理しているが、刻んで、フライパンでいためて、それで「盛大なご馳走」に変わるといわれても誰にも信じられないだろう。「手順」をきちんと書けば、つまり調味料に何をどれだけ使い、キャベツのほかにどんな材料を使い、その下準備をどうしたかをきちんと書けば、最後は省略しても「盛大なご馳走」であることがわかる。「手順」の省略した「盛大なご馳走」は堀内の中にしか存在しない。誰の目にも触れてはいない。想像する手がかりすらない。
 読者の想像力を信じているといえば聞こえはいいが、実は、堀内は自分自身の想像力をつきつめるという基本をおこたっている。事実を見極めるという基本的なことをおこたっている。「水蜜桃」。

冷えた水蜜桃は
少女の頃のわたしの足のうら

冷えた水蜜桃の産毛は
若い母のうなじそっくり

冷えた水蜜桃のかなたに
さびれた海浜の貝殻たちの呟き

冷えた水蜜桃のうす皮は
褪色していく家族の写真

 「 冷えた水蜜桃は/少女の頃のわたしの足のうら」と魅力的な行で書き出しながら、母を一回出しただけで「褪色していく家族の写真」と書かれても、なぜ「褪色」したのか読者にはわからない。幸福な海水浴の思い出と、それが「褪色」してしまうまでのあいだにあったものが、キャベツの料理と同じように省略されている。事実を見る、事実に自分を関係づけるという「努力」が欠けていると思う。

 きのう取り上げた和合亮一の『入道雲入道雲入道雲』。そのことばの暴走は単なる暴走ではない。暴走するためにはまず事実が必要である。

    昨晩ずっと
独楽を
   蔵王を回していた

 こういう行を書くためには、和合は蔵王をみつめなければならない。蔵王を自分の肉体のように感じるまでにみつめなければならない。毎日毎日蔵王をみつめるということは、簡単なようにみえるかもしれないが、それは、爆発したい気持ちをエプロンで包んで落ち着いた大人の女でいることよりも、実はもっと大変な努力がいるということを堀内はかんがて見なければいけないと思う。


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