現代詩文庫「清岡卓行
詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
『日常』の「思い出してはいけない」。「ぼく」と「きみ」の出会い。書かれていない「と」がある。そう言えるのは、きみ「と」ぼくの「間」に「世界」があるからだ。
きみ「と」ぼくが出会い、その結果孤独が生まれた。きみ「と」ぼくが一体ではないこと、重なり合わないこと、融合しないことが孤独である。「と」によって生まれた宇宙には何もない。そこにはきみとぼくをつなぐものはない。つなぐものを持たない宇宙が孤独である。
しかし、「と」がある。
つながりを求める意識がある。そこへ「世界」は「破片」を投げ入れてくると清岡は書く。「破片」とは何か。ほんとうは「破片」ではない何か、完全なものがどこかにあるはずだという思いがここには隠されている。それは言い換えれば、「破片」は「と」によってぼく側にできたものだということだ。「破片」の片割れ(?)は「と」の向こう側、ぼくではない方の側、つまり「きみ」の側にある。それが結びつけば「破片」は「破片」ではなく全体になる。
どこかに完全なものがあるという思いが「破片」ということばを引き出しているのである。それを握っているのは「きみ」である。「きみ」が「世界」のすべてなのである。この詩は、「きみ」を「世界」と呼んでいる点からみても、完全なラブレターである。
そのラブレターのなかで清岡は、きみの方に残っている「破片」の片割れ「と」ぼくの方に突然存在が明らかになった「破片」(きみが照らしだした「ぼく」の何か)が、「と」によって結びつくなら、そのとき「宇宙」は完全なものになると切実に訴えているのである。
「きみを見たときから」はきみ「と」会ったときからと同義である。「と」はここでは微妙に書き換えられているのである。こうした書かれていない「と」、隠された「と」も清岡の詩を読むときには見逃してはならない。
*
この3行に呼応するようにして思い出してしまう詩がある。同じ『日常』のなかの「風景」。
「鉄材置場」という「破片」。それが「ぼくの眼に」「しみ」た。それは、それを「ぼくが」でも「きみが」でもなく、「きみとぼく」という「二人」で眺めたからである。「ふたり」ということばには「きみとぼく」が隠されている。もっと明確にいえばきみ「と」ぼくが隠されている。「と」がきみとぼくを結びつけ、そのとき世界の「破片」は「破片」ではなくなっているのだ。
「鉄材置場」を私は最初「破片」と書き、いま「破片」は「破片」でなくなっている、と書く。これは矛盾である。矛盾であるけれど、そういう形でしか書けないことが清岡の詩には存在する。
そうした矛盾をつくりだしているのが「と」である。
『日常』の「思い出してはいけない」。「ぼく」と「きみ」の出会い。書かれていない「と」がある。そう言えるのは、きみ「と」ぼくの「間」に「世界」があるからだ。
きみを見たときから始まった
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。
きみ「と」ぼくが出会い、その結果孤独が生まれた。きみ「と」ぼくが一体ではないこと、重なり合わないこと、融合しないことが孤独である。「と」によって生まれた宇宙には何もない。そこにはきみとぼくをつなぐものはない。つなぐものを持たない宇宙が孤独である。
しかし、「と」がある。
つながりを求める意識がある。そこへ「世界」は「破片」を投げ入れてくると清岡は書く。「破片」とは何か。ほんとうは「破片」ではない何か、完全なものがどこかにあるはずだという思いがここには隠されている。それは言い換えれば、「破片」は「と」によってぼく側にできたものだということだ。「破片」の片割れ(?)は「と」の向こう側、ぼくではない方の側、つまり「きみ」の側にある。それが結びつけば「破片」は「破片」ではなく全体になる。
どこかに完全なものがあるという思いが「破片」ということばを引き出しているのである。それを握っているのは「きみ」である。「きみ」が「世界」のすべてなのである。この詩は、「きみ」を「世界」と呼んでいる点からみても、完全なラブレターである。
そのラブレターのなかで清岡は、きみの方に残っている「破片」の片割れ「と」ぼくの方に突然存在が明らかになった「破片」(きみが照らしだした「ぼく」の何か)が、「と」によって結びつくなら、そのとき「宇宙」は完全なものになると切実に訴えているのである。
「きみを見たときから」はきみ「と」会ったときからと同義である。「と」はここでは微妙に書き換えられているのである。こうした書かれていない「と」、隠された「と」も清岡の詩を読むときには見逃してはならない。
*
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。
この3行に呼応するようにして思い出してしまう詩がある。同じ『日常』のなかの「風景」。
ぼくは 風景などに
まるで興味はなかったのに
二人でプラットホームから眺めた
あの古ぼけた ありきたりの
猫の子一匹いない 鉄材置場は
なぜぼくの眼に そんなにもしみたのか?
「鉄材置場」という「破片」。それが「ぼくの眼に」「しみ」た。それは、それを「ぼくが」でも「きみが」でもなく、「きみとぼく」という「二人」で眺めたからである。「ふたり」ということばには「きみとぼく」が隠されている。もっと明確にいえばきみ「と」ぼくが隠されている。「と」がきみとぼくを結びつけ、そのとき世界の「破片」は「破片」ではなくなっているのだ。
「鉄材置場」を私は最初「破片」と書き、いま「破片」は「破片」でなくなっている、と書く。これは矛盾である。矛盾であるけれど、そういう形でしか書けないことが清岡の詩には存在する。
そうした矛盾をつくりだしているのが「と」である。