詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(3)

2006-11-28 23:36:05 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『日常』の「思い出してはいけない」。「ぼく」と「きみ」の出会い。書かれていない「と」がある。そう言えるのは、きみ「と」ぼくの「間」に「世界」があるからだ。

きみを見たときから始まった
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。 

 きみ「と」ぼくが出会い、その結果孤独が生まれた。きみ「と」ぼくが一体ではないこと、重なり合わないこと、融合しないことが孤独である。「と」によって生まれた宇宙には何もない。そこにはきみとぼくをつなぐものはない。つなぐものを持たない宇宙が孤独である。
 しかし、「と」がある。
 つながりを求める意識がある。そこへ「世界」は「破片」を投げ入れてくると清岡は書く。「破片」とは何か。ほんとうは「破片」ではない何か、完全なものがどこかにあるはずだという思いがここには隠されている。それは言い換えれば、「破片」は「と」によってぼく側にできたものだということだ。「破片」の片割れ(?)は「と」の向こう側、ぼくではない方の側、つまり「きみ」の側にある。それが結びつけば「破片」は「破片」ではなく全体になる。
 どこかに完全なものがあるという思いが「破片」ということばを引き出しているのである。それを握っているのは「きみ」である。「きみ」が「世界」のすべてなのである。この詩は、「きみ」を「世界」と呼んでいる点からみても、完全なラブレターである。
 そのラブレターのなかで清岡は、きみの方に残っている「破片」の片割れ「と」ぼくの方に突然存在が明らかになった「破片」(きみが照らしだした「ぼく」の何か)が、「と」によって結びつくなら、そのとき「宇宙」は完全なものになると切実に訴えているのである。
 「きみを見たときから」はきみ「と」会ったときからと同義である。「と」はここでは微妙に書き換えられているのである。こうした書かれていない「と」、隠された「と」も清岡の詩を読むときには見逃してはならない。



ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。

 この3行に呼応するようにして思い出してしまう詩がある。同じ『日常』のなかの「風景」。

ぼくは 風景などに
まるで興味はなかったのに
二人でプラットホームから眺めた
あの古ぼけた ありきたりの
猫の子一匹いない 鉄材置場は
なぜぼくの眼に そんなにもしみたのか?

 「鉄材置場」という「破片」。それが「ぼくの眼に」「しみ」た。それは、それを「ぼくが」でも「きみが」でもなく、「きみとぼく」という「二人」で眺めたからである。「ふたり」ということばには「きみとぼく」が隠されている。もっと明確にいえばきみ「と」ぼくが隠されている。「と」がきみとぼくを結びつけ、そのとき世界の「破片」は「破片」ではなくなっているのだ。
 「鉄材置場」を私は最初「破片」と書き、いま「破片」は「破片」でなくなっている、と書く。これは矛盾である。矛盾であるけれど、そういう形でしか書けないことが清岡の詩には存在する。
 そうした矛盾をつくりだしているのが「と」である。
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デヴィッド・フランケル監督「プラダを着た悪魔」

2006-11-28 22:13:46 | 映画
監督 デヴィッド・フランケル 出演 メリル・ストリープアン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチ

 この映画の見どころはふたつ。ひとつはもちろんファッション。いかに多くのファッションをスクリーンに登場させるか。遮蔽物を映画は利用している。信号を待つ。車が通りすぎる。するとさっきまで着ていた洋服とは違った服で主人公が歩きだす。地下鉄の入口へ入っていくときと出てくるときではもちろん洋服は違う。靴もアクセサリーもバッグもかわる。しかも、あれは何? もう一度しっかり見てみたいというファッションへの欲望をくすぐるような素早さで、全体像をはっきりとは見せない。メリル・ストリーが次々にコートとバッグを机の上にほうりだすシーンの連続はその象徴的なものだ。豪華なのに、その豪華さを一瞬しか見せない。欲しかったら店にいって確かめ、手に入れろと欲望をくすぐるだけである。こういうめまぐるしい映画では人間の欲望はあからさまになるけれど、それ以外の人間性が陰に隠れてしまう。ふたつめの見どころは、したがって、その人間性、苦悩や悲しみを、どうやって表現するかという点である。
 メリル・ストリープがたいへんすばらしい。「マディソン郡の橋」ではたくましく大地に生きる農家の主婦を裸足で演じていたが、こんどはそういう土の匂いとまったく無縁の女性を演じながら、一瞬、人間の悲しさを見せる。せつなさを見せる。離婚、それにともなう子供のこころの負担、それを心配するときの、化粧を落とした(?)むき出しの素顔。「マジソン郡の橋」の主婦のときより生々しい。疲労感が辺り中にただよい、しかもそこからなお立ち上がっていこうとする苦悩が、ほんの一瞬なのに、ずきりと胸に刺さる。なぜ、その苦悩、悲しみを、夫に言わずにひとりで抱え込むのか、と胸が痛くなる。
 演技とはわかっていても、こういう顔で、声で、せつせつと語られると、主人こうならずとも思わず親身になってしまう。
 主人公のアン・ハサウェイの人間性(?)の変化は、いわばストーリーの進行に伴って揺れるものだから、観客の方も自然に納得してしまうけれど、メリル・ストリーの場合は、ストーリーの展開に沿うというよりも、ストーリーの展開を突き破って噴出してくる現実である。こういうストーリーを破って噴出する現実があるからこそ、その映画が映画でありながらリアルなものになる。そのリアルさを一人で支え、演じきっている。
 この人間は生きているというリアルさがあるからこそ、最後のメリル・ストリーのことば、間接的に伝えられることばの一瞬にも、そこにメリル・ストリーの姿が映っていないにもかかわらず、メリル・ストリーが見える。
 メリル・ストリーにほれ直してしまう。ファッションに興味がなくてもメリル・ストリーの演技を見るだけでもこの映画はおもしろい。ファッションに興味があってこの映画を見た人にもメリル・ストリーの演技も味わってもらいたい。


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