高良留美子『崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その2)
「わたし」が存在するとき、「わたし」と「わたし以外のもの」のあいだ、「間」が存在する。そしてその「間」は、「魔」であり、また「真」でもある。そのことを意識しながら、表題作「崖下の道」を読み返してみる。
「彼女」は今十歳ではない。その「彼女」が「十歳の少女」を思い出すとき、二人のあいだに「間」がある。その「間」はそのままにしておいてはいけない。そのままにしておけば、そこから「魔」が出現してくる。そういうことが「真」として存在する。「魔」を出現させないために、「彼女」は何をしなければならないか。「間」を消してしまわなければならない。今生きている「彼女」でなくて、「十歳の少女」にもどることで、「彼女」と「十歳の少女」の「間」を消してしまう。ないものにする。そうすれば「魔」は出現して来ない。--これが「彼女」(高良)が信じている「思想」、「真」と信じていることである。
「崖下の道」で何があったのか。高良は具体的には書いていない。書いていないけれど、そこではかつて「魔」が出没したのだ。そして、その「魔」は「十歳の少女」ではない誰か、一緒にいただれかによって消し去られたのである。今、「魔」が存在しないのは、かつてだれかが消し去ったからであり、その消し去りがあるから、「彼女」は今、ここにこうして生きている。そのことを深く自覚する。「真」があるとしたら、だれかが「少女」の目の前に出現した「魔」を消し去ったということであり、そのことを忘れないために、「彼女」は「十歳の少女」に戻らなければならないのである。それが「魔」を消してくれた人に対する唯一の返礼の仕方だからである。「魔」を消してくれた人を忘れない、というのが「彼女」(高良)の「思想」でもある。
「十歳の少女」のときではないが、「彼女」(高良)には忘れられない記憶がある。「北安(ベーアン)で」。
ハルビンへ逃げる途中、河岸までたどり着いたとき、ソ連兵が一行をとりかこんだ。数人が銃をかまえ、ロシア語で「女を出せ」という。女たちはみな男装していた。ソ連兵はすぐ踏み込んできて、一人ひとり調べはじめるだろう。彼女は数え年十六歳だった。顔を伏せていたが、体のふるえが止まらなかった。
そのときひとりの女が進み出て、いった。「わたしが行く。」一行に混じっていた商売女といわれる女たちの一人だ。すると何人かの女がかたわらに立った。
「姐(ねえ)さんをひとりで行かせるわけにはいかない。わたしたちも行く。」
彼女たちはソ連兵に引き立てられて去っていった。
侵略戦争に敗れ、引き上げる「彼女」を含む一行。その前にあらわれたソ連兵。その「間」に「女を出せ」という「魔」の声が響く。「魔」が出現したことがあった。「魔」の前で「彼女」はふるえているしかなかった。そのとき、「魔」を消してくれた人がいる。商売女といわれるひとたち。彼女たちが「魔」とともに消え去った。自分を犠牲にすることで「魔」を消してくれた。それがそのときの「真実(真)」である。
その「真」を「彼女」は忘れてはならない。その「真」を彼女は、ことばにして残していかなければならない。そのために、「彼女」は北安の町へ旅したのだった。
侵略戦争が終わってすでに60年以上たつ。今とそのときとのあいだ、「間」は遠く広がってしまった。かつて何があったのか、そのとき「彼女」の目の前にどんな「魔」が出現し、またどんな「真」が出現したのか。その「真」をどうやって引き継いで行くか。そのことを「彼女」は考えている。
「真」を引き継ぐこと、「真」を語ること--それは「魔」の出現を防ぐ唯一の方法だからである。
戦争を放棄した人間が受け入れなければならない「運命」があるとしたら、それは「魔」に蹂躙されることではなく、「魔」を出現させないために、「魔」を消すためにおのれを犠牲にした人がいたということを語り続けること、語りながら、悲しみを「真」にかえることである。
「魔」が「真」にかわったとき、その年に、「彼女」は「崖下の道」に書かれているように、確かに「運命の手に捉えられてしまった」のである。「魔」を「真」に変えた一瞬、そういう人々のことをかたりつづけなければならないという「運命」の手に。そして、その「運命」の手にとらえられたまま高良は詩を書く。その「運命」に身を投げ出す--それが高良の「思想」である。
「運命」に身を投げ出している--そういう潔さがあるからだろう。高良の文体は清潔である。余分なことを書いていない。余分なことを書けば「魔」が侵入してくるとでもいうかのように、彼女の肉体にぴったりとくっついているものだけを、「真」と呼ぶに値する事実だけを書いている。
「わたし」が存在するとき、「わたし」と「わたし以外のもの」のあいだ、「間」が存在する。そしてその「間」は、「魔」であり、また「真」でもある。そのことを意識しながら、表題作「崖下の道」を読み返してみる。
その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき
あたかも彼女の生が
その歳(とし)で止まってしまったかのように
彼女が決して
十歳より上になることなどなかったかのように
深い渓谷に沿ってのびるその道が
十歳を超えた彼女を見ることを望まないかのように
あたかも彼女の生がその年に
運命の手に捉えられてしまったかのように
あの夏に十歳であったものは
いまも十歳でなければならないかのように
それ以上に成長しようとすれば
何かが壊れてしまうかのように
その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき
「彼女」は今十歳ではない。その「彼女」が「十歳の少女」を思い出すとき、二人のあいだに「間」がある。その「間」はそのままにしておいてはいけない。そのままにしておけば、そこから「魔」が出現してくる。そういうことが「真」として存在する。「魔」を出現させないために、「彼女」は何をしなければならないか。「間」を消してしまわなければならない。今生きている「彼女」でなくて、「十歳の少女」にもどることで、「彼女」と「十歳の少女」の「間」を消してしまう。ないものにする。そうすれば「魔」は出現して来ない。--これが「彼女」(高良)が信じている「思想」、「真」と信じていることである。
「崖下の道」で何があったのか。高良は具体的には書いていない。書いていないけれど、そこではかつて「魔」が出没したのだ。そして、その「魔」は「十歳の少女」ではない誰か、一緒にいただれかによって消し去られたのである。今、「魔」が存在しないのは、かつてだれかが消し去ったからであり、その消し去りがあるから、「彼女」は今、ここにこうして生きている。そのことを深く自覚する。「真」があるとしたら、だれかが「少女」の目の前に出現した「魔」を消し去ったということであり、そのことを忘れないために、「彼女」は「十歳の少女」に戻らなければならないのである。それが「魔」を消してくれた人に対する唯一の返礼の仕方だからである。「魔」を消してくれた人を忘れない、というのが「彼女」(高良)の「思想」でもある。
「十歳の少女」のときではないが、「彼女」(高良)には忘れられない記憶がある。「北安(ベーアン)で」。
ハルビンへ逃げる途中、河岸までたどり着いたとき、ソ連兵が一行をとりかこんだ。数人が銃をかまえ、ロシア語で「女を出せ」という。女たちはみな男装していた。ソ連兵はすぐ踏み込んできて、一人ひとり調べはじめるだろう。彼女は数え年十六歳だった。顔を伏せていたが、体のふるえが止まらなかった。
そのときひとりの女が進み出て、いった。「わたしが行く。」一行に混じっていた商売女といわれる女たちの一人だ。すると何人かの女がかたわらに立った。
「姐(ねえ)さんをひとりで行かせるわけにはいかない。わたしたちも行く。」
彼女たちはソ連兵に引き立てられて去っていった。
侵略戦争に敗れ、引き上げる「彼女」を含む一行。その前にあらわれたソ連兵。その「間」に「女を出せ」という「魔」の声が響く。「魔」が出現したことがあった。「魔」の前で「彼女」はふるえているしかなかった。そのとき、「魔」を消してくれた人がいる。商売女といわれるひとたち。彼女たちが「魔」とともに消え去った。自分を犠牲にすることで「魔」を消してくれた。それがそのときの「真実(真)」である。
その「真」を「彼女」は忘れてはならない。その「真」を彼女は、ことばにして残していかなければならない。そのために、「彼女」は北安の町へ旅したのだった。
侵略戦争が終わってすでに60年以上たつ。今とそのときとのあいだ、「間」は遠く広がってしまった。かつて何があったのか、そのとき「彼女」の目の前にどんな「魔」が出現し、またどんな「真」が出現したのか。その「真」をどうやって引き継いで行くか。そのことを「彼女」は考えている。
「真」を引き継ぐこと、「真」を語ること--それは「魔」の出現を防ぐ唯一の方法だからである。
戦争を放棄した人間が受け入れなければならない「運命」があるとしたら、それは「魔」に蹂躙されることではなく、「魔」を出現させないために、「魔」を消すためにおのれを犠牲にした人がいたということを語り続けること、語りながら、悲しみを「真」にかえることである。
「魔」が「真」にかわったとき、その年に、「彼女」は「崖下の道」に書かれているように、確かに「運命の手に捉えられてしまった」のである。「魔」を「真」に変えた一瞬、そういう人々のことをかたりつづけなければならないという「運命」の手に。そして、その「運命」の手にとらえられたまま高良は詩を書く。その「運命」に身を投げ出す--それが高良の「思想」である。
「運命」に身を投げ出している--そういう潔さがあるからだろう。高良の文体は清潔である。余分なことを書いていない。余分なことを書けば「魔」が侵入してくるとでもいうかのように、彼女の肉体にぴったりとくっついているものだけを、「真」と呼ぶに値する事実だけを書いている。