詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「命座」

2006-11-27 15:00:26 | 詩集
 大橋政人「命座」(「ガーネット」50、2006年11月01日発行)。
 星の星座に対して人間の命の「命座」。こうしたことばがあるかどうか私は知らない。たぶん大橋の捏造だろう。この捏造に私は「詩」を感じる。「捏造」とは実際には存在しないものを想像力でつくりあげていくことである。そこに、その詩人の感性・知識などが総動員され、とうぜんのことながら、それは詩人の全体像をあんじさせるものになる。そうしたことばの動きが私は大好きだ。
 ある絶対的な存在に触れ、ことばがかってに動いていって詩になる--というのもすばらしいが、何もないところからことばを動かしていって、そのうごかした軌跡が詩になるというのも楽しい。

私たち
一人一人の命というのは
夜空の星の
一つ一つみたいだ

真っ暗で
恐ろしいだけの
宇宙という広がりの中に生まれて
右も左も
前も後ろも
上も下もわからず
かぼそい光を発している

さみしいので
互いに手を伸ばす
みんな
無闇に手を伸ばす

 人間を宇宙の小さな星にたとえる書き出しは、古い古い流行歌のようである。新鮮さはどこにもない。新鮮さがないことが新鮮である、というような皮肉さえいいたいくらい凡庸な比喩である。
 書き出しから3連までに書かれていることはセンチメンタルな常套句である。
 「真っ暗で/恐ろしい」など平凡すぎて、読んだのか読まなかったのかわからないくらいの印象しかない。「かぼそい光」という不安げなことば(これまた常套句)から「さびしい」へと連をかえてつながっていくところなど、センチメンタルというのも恥ずかしいくらいの常套句である。
 おもしろい部分があるとすれば、「右も左も/前も後ろも/上も下もわからず」としつこいくらいに丁寧にことばをかさねていることだ。「右も左も」だけで充分なのに前後・上下にも触れている。一生懸命ことばを重ねることで、その重なりの運動の中から何かがうまれてくることを期待しているようでもある。
 そしてその繰り返しは、3連目でことばもかえず(2連目では、一応、前後、上下と表現が変わっていたが)、「手を伸ばす」というリフレインになる。だが、それは単なる繰り返しではない。繰り返すことで、それまで考えたことを明確に確認し、そこから飛躍するのだ。そのために繰り返すのだ。
 ここからだ、この詩のおもしろいところだ。

手と手を
やっとつなぎ合って
鳥とか犬とか熊とか
何かの形のようなものをつくろうとするが

どの形にも
どこか
無理がある

コジツケ
みたいだ

 想像力とは「無理」をすることだ。そこにないものを見ること、そこにあるものをそこにあるものではないものにかえていくことだからである。そんなことは現実にはありえない。(発明は、その「無理」を別の存在を借りながらつくりあげていくことである。)たとえば「白鳥座」、たとえば「大熊座」。それは星と星とを線で結び合わせただけでは白鳥や星にはならない。むすびあわさった線に、さらにありえない線をつけくわえないことには白鳥や熊の形にはならない。
 このさらにつけくわえる線を想像力といえばいえるが、「コジツケ」をむりやり補強しているようでもある。
 大橋は、じっさい、こうした想像力の動きを「コジツケ/みたいだ」と書いている。想像力を「コジツケ」と呼ぶとき、ふいに、現実が浮かび上がる。そんな「コジツケ」に頼らずに、ただ、いまここにある「命」をそのまま受け入れればいいじゃないか、という低い低い声が静かに足元に横たわる。
 そういう声を、私たちは、いつのまにか、どこかに忘れてしまっているかかもしれない。その忘れてしまった声、「コジツケ」の「理想」(人間は手を取り合って生きるというような理想)なんかいやだなあという声を、大橋は取り戻そうとしているのかもしれない。
 こういう声はいいなあ、と思う。その声の低さ、静かさ、見えにくさのなかに「詩」はたしかにあるのだと思う。


コメント
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