詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大崎千明「クモ」、小松弘愛「たっすい」

2006-11-18 23:23:57 | 詩集
 大崎千明「クモ」、小松弘愛「たっすい」(「兆」132、2006年10月28日発行)
 大崎千明「クモ」はとても不思議な詩である。

ふと不安になった
おしりからクモが出てくるのではないかと
それは 用のあと
おしりをふいた紙を見たら
小さな黒いクモに見えたからだが

 何かがゆがんで見える。存在しないものが存在しているように見える。それとどう向き合うべきなのか、を考えている。その導入部が「クモ」であるのが、とてもおかしい。「おしりをふいた紙を見たら」というのが、とてもおかしい。こういう肉体の出し方というのはいいなあ、と思う。
 そして、この肉体が、詩の途中でとても重要になってくる。その部分もとてもいい。

わたしはきのう
病気の母を背中に背負って自転車をこいでいた
ゆるい上りの山道はでこぼことハンドルをとられて
転びそうになりながら やっと
バランスをとり

道が薄暗くなったとき
見知らぬ男がついてくるのに気づいた
自転車は重くてすすまない
しだいに近付いてくる男
とうとう自転車ごとわたしたちは倒れてしまった

ほとんど裸の母は口もきけず
わたしは このままここに
母を置いて逃げたかった
裸の母の身体に布を巻いて背負い
わたしは走った

男が追いかけてくる
今にも襲いかかってくる
母を ここに 置いて 逃げたら
そうしたらわたしは助かる
母はきっと死ぬ

桃色のカーテン越しに
朝の陽差しがわたしを目覚めさせ
夢だと思った
でも わたしの背中の母が
消えるわけではない

 「わたしの背中の母が/消えるわけではない」がすばらしい。悪夢は消える。夢の中の男も消える。母も消えるかもしれない。しかし、「背中」は消えない。「背中」に残る母の肉体の感触は消えない。大崎が「消えるわけではない」と言っているのは、背中に残る母の感触である。
 感触は「わたし」と「母」をつなぐものである。母を「ここに 置いて 逃げたら」と想像することはできるし、実際に置き去りにして逃げることもできる。しかし、感触を置いて逃げるわけにはいかない。
 感触というのは、結局、自分自身である。大崎自身である。
 感触のことは、大崎にしかわからない。
 それは夢のなかに出てきた「男」と同じものである。大崎にしか見えない。そしてまた、用を足したあとの紙に残る「クモ」と同じである。それを見た人は大崎しかいない。
 だからこそ、大崎は書く。

たとえおしりからクモが出てきても
目をそむけずに
わたしはそのものと
向き合わなければならない

 それに向き合えるのは大崎しかいないからである。

 で「クモ」と「母」の関係は? 
 大崎は具体的には書いていない。以下は私の想像である。大崎は母を介護したことがあるのだろう。下の世話も含まれているだろう。そのとき、お尻をふいた紙を見るというようなこともあっただろう。そのときも「クモ」を見たかもしれない。「母を ここに 置いて 逃げたら」と思ったこともあったかもしれない。「そうしたら わたしは助かる」と思ったこともあるかもしれない。そして、その、思ったこと、が「感触」として肉体に残るのである。母の裸(裸同然の体)に触れた手、その感触。母を背負った感触。病気ならば母の体はべったりと大崎の背中にはりついただろう。内臓そのものが直接背中に触れているのではないかと感じるような、逃れることのできない感触……。
 その感触と「クモ」はつながっているのである。クモの巣の細い細い糸のようなもので。
 母の病気と大崎の肉体もつながっているのかもしれない。予感のようなものとして。



 小松弘愛「たっすい」は「たっすいがは、いかん」と言われた時代の記憶について語っている。「たっすいがは、いかん!」ということばは、戦争中は国を挙げて叫ばれた。「気力が乏しい、弱いのはいけない」という意味である。小松は子供時代は「たっすい」と呼ばれていたらしい。今はキリンラガーの広告につかわれている。居酒屋でキリンにしますか、アサヒにしますか、と問われて、ふいに子供時代に読んだ「ヨミカタ」の教科書が浮かぶ。「たっすいがは、いかん」と言われた記憶がよみがえる。

一瞬
迷ったその時
「たっすいがは、いかん!」
の 赤い文字を配した
横断幕のようなものが目の前に浮かび
りゅうりょうたるラッパの音が聞こえて--
むろん これは真っ赤な嘘で

 チテ チテ タ
 トタ テテ
   タテ タ

「ヨミカタ」の活字が
チラチラと頭の隅にちらつき
わたしは
「アサヒ」

答えてしまった。

 「弱さ」を選ぶ。それが小松の肉体にしみついた「思想」かもしれない。「弱さ」を選ぶとは「権力に与しない」と言い換えると、わかりやすい「思想」になるかもしれないが、そんなふうに言い換えず「弱さ」を選ぶ、選んでしまうのが小松なのだろう。
 「答えてしまった」の「しまった」のなかに、肉体を感じる。
 この肉体はどこかで大崎の、「背中」の感触に通じる。「意識」で制御できない反射神経、肉体にしみついてしまったものである。だからこそ、信頼することができる。
 「権力に与しない」というようなことは「真っ赤な嘘」の類のものかもしれない。かっこいい「思想」はどこかうさんくさい。「弱さ」を選んで「しまった」(しまう)という、それこそどうしようもない「弱さ」こそ、人を裏切らない何か、真に「思想」と呼ぶにふさわしいものだろうと思う。
 大崎のことばを流用して書けば、体にはりついた「弱さ」は「消えるわけではない」、消えるものではない。だから「思想」なのだ。


コメント
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