詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村龍『perpetual β』

2006-11-23 23:05:05 | 詩集
 野村龍『perpetual β』(七月堂、2006年10月01日発行)。
 「Dance 」。

琥珀の眠りのなかで
鳥の橋を渡った

薔薇の衣をまとって
あなたは命をそそぐ
淡い 言葉の杯に

しっとりと 濡れた短い髪は
甘い雨の訪れを告げている

素足のまま
ふたりで羊歯を踏みしだいていく

 「言葉の杯」。たしかに野村の向き合っているのは「言葉の杯」なのだろうと思う。そして、そこに「命を注ぐ」。この詩は「あなた」を主語にして「命を注ぐ」と書いているが、ほんとうの主語は野村自身だろう。
 「言葉の杯」に「命を注ぐ」手つきは慎重である。繊細である。杯いっぱいに、丁寧に水を注ぐように、「命」を注いでいる。「命」がもし水であるなら、表面張力で杯の淵で、縁にぷっくらと水がはみだすくらいに丁寧に注いでいる。
 その繊細な注意力は、それはそれでいいのだと思うけれど、何か「注ぎ」すぎている。ことばが多すぎる。「琥珀の」「薔薇の」「淡い」「しっとりと」「甘い」--それらのことばには「詩的」(?)な匂いが強すぎて、いささかうるさい。注いだ先からこぼれてしまうだろう、という気がする。
 また「淡い 言葉の杯」に注ぐには、そういう繊細なものしか入らないのかもしれないけれど、異質なもの、何か世界を破壊するような力のあるものが注がれないと、「詩」は生まれないのではないだろうか。
 「言葉の杯」が壊れる瞬間、誕生する「詩」というものがあることに、気がついてほしいと思う。
 「命」とは大切にしなければ壊れてしまうものかもしれないが、一方で、何もかもを破壊してしまうからこそ「命」なのだともいえる。すべてを壊して、そこからまったく新しく始まることができるのが「命」なのだともいえる。何も壊さない「命」はただ縮小していくだけのように思える。
 失われていくからこそ、それを丁寧に、繊細に注ぐのだと反論されると何もいうことはなくなるのだけれど。

 「HAIKU」という作品は3行ずつの断章でできている。3行という制約があるためか、ことばがうるさくなる前に終わってしまうので余韻がある。
 俳句というよりも外国語でつくられたHAIKUを翻訳したような感じもする。

蕾に
熱湯を注ぎ入れる
芳しい小鳥が いっせいに羽ばたく

 この3行は、何か翻訳の間違い(?)とでもいうような感じ、「新感覚派」の小説のことばのようで、おもしろい。「日本語」の「骨」が砕けていて、おもしろい。
 私はちょっと「桜湯」を想像したのだが、「桜湯」を書いたものではないことを期待したい。

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ヴィセンテ・アモリン監督「Oiビシクレッタ」

2006-11-23 14:18:16 | 映画
監督 ヴィセンテ・アモリン 出演 ヴァグネル・モーラ、クラウジア・アブレウ、ラヴィ・ラモス・ラセルダ

 「世界の中心広場」。ブラジルの北部にある。まわりには何もない。「文字」がただそう告げている。だれが決めたのか知らないが、そう決めて、それでよしとする。ここにこの映画のすべてがある。膨大な空間、そのなかの人間。人間を支えるのは「決定」(決意)である。
 映画は小さな街からリオデジャネイロまで3000キロ、自転車で移動する一家の話である。一家には何と乳児までいる。月1000レアルの仕事を求めて(仕事に就けるという保証はない)である。決めたのは夫であり、父親である。その無謀な決定にしたがって自転車をこぐ。
 3000キロの旅だから途中にいくつかのことが起きる。起きるけれど、そういうものはほとんど関係ない。「なんとか神父」の巨大な像なども登場するし、小さな街も登場するが、それらはすべて自転車をこいで仕事をみつけにいくという決意の前に吹っ飛んでしまう。その決意にしたがって行動する、つまり決意を実行する家族の行動力、愛と団結の力の前に、あらゆるものが吹っ飛んでしまう。彼らが存在するところが「世界の中心」である。中心には「父・夫」という「看板」がたっている。
 ひたすら頑固な夫・父。それでも好きで好きでたまらない、とついてゆく女(妻・母)。とりわけ、妻・母親のクラウジア・アブレウがすばらしい。太陽に焼かれてブロンズ色に輝く肌、しなやかな手足は彼女のこころのままに生き生きとしている。長い長い坂道を自転車で上るときのゆがんだ顔さえもが美しい。子供のギターにあわせて歌を歌うときの、歌を歌うことが楽しい、楽しいから歌えるといった表情がいい。みとれてしまう。彼女の美しさが殺風景な荒野を輝かせ、長い長い道のりを輝かせる。ブラジルの広大さをはねとばして、彼女の肉体とこころが「世界の中心」であり、その「広場」に家族が集まってくるのだという印象が残る。無学の父親は何も知らずに、彼自身が「世界の中心広場」という「看板」の役割をしている。
 反抗期の少年(長男)のラヴィ・ラモス・ラセルダも生き生きしている。内気と、内気を突き破ってしまいたい衝動。愛と怒りと悲しみ。そういうものが自然に移り変わる。どこまでいっても同じに見えるブラジルの広大さなかで動くこころがいい。
 人間は生きている。生きて輝く存在である。ただそのことだけを肉体の美しさ、健康さで伝える映画である。3000キロの旅なのに、風景を見た記憶はない。ただまっすぐにまっすぐに自転車をこぐ家族がいるだけである。まがりくねった道さえも彼らが自転車をこげばまっすぐにつづく道となる--そういう印象を呼び起こすような、不思議な不思議な健康さにあふれた映画である。どんな道も、彼らの「世界の中心広場」、生きている「現場」へと続いている。
 「剛直な力」の「詩」である。全編を貫く映像も「剛直」そのものである。「美しさ」「新鮮さ」など狙っていない。自転車の魅力さえ伝えようとしていない。ただ 7人の家族がいるということだけを「剛直」に映し出す。

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