野村龍『perpetual β』(七月堂
、2006年10月01日発行)。
「Dance 」。
「言葉の杯」。たしかに野村の向き合っているのは「言葉の杯」なのだろうと思う。そして、そこに「命を注ぐ」。この詩は「あなた」を主語にして「命を注ぐ」と書いているが、ほんとうの主語は野村自身だろう。
「言葉の杯」に「命を注ぐ」手つきは慎重である。繊細である。杯いっぱいに、丁寧に水を注ぐように、「命」を注いでいる。「命」がもし水であるなら、表面張力で杯の淵で、縁にぷっくらと水がはみだすくらいに丁寧に注いでいる。
その繊細な注意力は、それはそれでいいのだと思うけれど、何か「注ぎ」すぎている。ことばが多すぎる。「琥珀の」「薔薇の」「淡い」「しっとりと」「甘い」--それらのことばには「詩的」(?)な匂いが強すぎて、いささかうるさい。注いだ先からこぼれてしまうだろう、という気がする。
また「淡い 言葉の杯」に注ぐには、そういう繊細なものしか入らないのかもしれないけれど、異質なもの、何か世界を破壊するような力のあるものが注がれないと、「詩」は生まれないのではないだろうか。
「言葉の杯」が壊れる瞬間、誕生する「詩」というものがあることに、気がついてほしいと思う。
「命」とは大切にしなければ壊れてしまうものかもしれないが、一方で、何もかもを破壊してしまうからこそ「命」なのだともいえる。すべてを壊して、そこからまったく新しく始まることができるのが「命」なのだともいえる。何も壊さない「命」はただ縮小していくだけのように思える。
失われていくからこそ、それを丁寧に、繊細に注ぐのだと反論されると何もいうことはなくなるのだけれど。
「HAIKU」という作品は3行ずつの断章でできている。3行という制約があるためか、ことばがうるさくなる前に終わってしまうので余韻がある。
俳句というよりも外国語でつくられたHAIKUを翻訳したような感じもする。
この3行は、何か翻訳の間違い(?)とでもいうような感じ、「新感覚派」の小説のことばのようで、おもしろい。「日本語」の「骨」が砕けていて、おもしろい。
私はちょっと「桜湯」を想像したのだが、「桜湯」を書いたものではないことを期待したい。
「Dance 」。
琥珀の眠りのなかで
鳥の橋を渡った
薔薇の衣をまとって
あなたは命をそそぐ
淡い 言葉の杯に
しっとりと 濡れた短い髪は
甘い雨の訪れを告げている
素足のまま
ふたりで羊歯を踏みしだいていく
「言葉の杯」。たしかに野村の向き合っているのは「言葉の杯」なのだろうと思う。そして、そこに「命を注ぐ」。この詩は「あなた」を主語にして「命を注ぐ」と書いているが、ほんとうの主語は野村自身だろう。
「言葉の杯」に「命を注ぐ」手つきは慎重である。繊細である。杯いっぱいに、丁寧に水を注ぐように、「命」を注いでいる。「命」がもし水であるなら、表面張力で杯の淵で、縁にぷっくらと水がはみだすくらいに丁寧に注いでいる。
その繊細な注意力は、それはそれでいいのだと思うけれど、何か「注ぎ」すぎている。ことばが多すぎる。「琥珀の」「薔薇の」「淡い」「しっとりと」「甘い」--それらのことばには「詩的」(?)な匂いが強すぎて、いささかうるさい。注いだ先からこぼれてしまうだろう、という気がする。
また「淡い 言葉の杯」に注ぐには、そういう繊細なものしか入らないのかもしれないけれど、異質なもの、何か世界を破壊するような力のあるものが注がれないと、「詩」は生まれないのではないだろうか。
「言葉の杯」が壊れる瞬間、誕生する「詩」というものがあることに、気がついてほしいと思う。
「命」とは大切にしなければ壊れてしまうものかもしれないが、一方で、何もかもを破壊してしまうからこそ「命」なのだともいえる。すべてを壊して、そこからまったく新しく始まることができるのが「命」なのだともいえる。何も壊さない「命」はただ縮小していくだけのように思える。
失われていくからこそ、それを丁寧に、繊細に注ぐのだと反論されると何もいうことはなくなるのだけれど。
「HAIKU」という作品は3行ずつの断章でできている。3行という制約があるためか、ことばがうるさくなる前に終わってしまうので余韻がある。
俳句というよりも外国語でつくられたHAIKUを翻訳したような感じもする。
蕾に
熱湯を注ぎ入れる
芳しい小鳥が いっせいに羽ばたく
この3行は、何か翻訳の間違い(?)とでもいうような感じ、「新感覚派」の小説のことばのようで、おもしろい。「日本語」の「骨」が砕けていて、おもしろい。
私はちょっと「桜湯」を想像したのだが、「桜湯」を書いたものではないことを期待したい。