三角みづ紀
『カナシヤル
』(思潮社
)(2006年10月15日発行)。
どの詩からも肉体を求める声が聞こえてくる。感情はあるのに、その入れ物としての肉体がない、感情を入れる肉体が欲しいと泣いている声が聞こえる。「プレゼント」のなかほど。
「あなたは本当は/おらんひとなのかもしれん」。このときの「おらん」は感情として存在しないではなく、肉体として存在しないという意味だろう。肉体の移動には時間がかかる。感情の移動には時間はかからない。感情は、いつでも、どこでも存在できる。肉体はそういう具合にはいかない。
「あなた」は肉体であるよりも前に感情である。感情であるから、早く移動することができる。どこへ、かというと、「わたし」の感情へである。感情から感情へ、感情が動く。これを「愛」といえば「愛」だが、三角の不安は、「愛」があまりにも感情的、あるいは精神的すぎるということだろう。
三角の感情・精神を上回って、「あなた」の感情・精神が「わたし」に寄り添う。というよりも、「わたし」の感情を、さらに育ててしまう。「わたし」の感情を先回りしてしまう。
なぜ、恋人(あなた)は「水色と緑色の混じった/きれいな足首」を選んだのだろうか。それは「わたし」がひそかに望んだもの、というより、差し出されてみて、それこそが「わたし」の望んだ足首だったわかるようなものを差し出したのか。肉体としては不在、感情・精神としてのみ存在するからである。感情・精神は「ことば」のなかで重なり合い、その重なってしまえば、みわけがつかない。「おらんひと」と同じものになってしまう。(こうした考え方に対して異論を差し挟むことはできるし、本当は反論しなければならないのだけれど、ここでは省略する。私がきょう日記で書きたいと思っているのは、三角にとって「肉体」は存在しない、ゆえに肉体を求める、ということなのだから。)
この詩では足首を切断する、足首を海で拾ってきて切断した足のかわりに結合するということが書かれている。もちろん「比喩」としてそう書かれている。「比喩」であるから、それは本当の肉体ではないのだが、それを上回って(と言っていいのだろうか)、肉体が不在である。
「比喩」とはいいながら、この「比喩」は肉体からはあまりにも遠い。新しい(?)足首は「わたし」の肉体と適合するかどうかよりも前に、感情・精神として動く。「浅い海のなかに居るように心細い/ひんやりとした/くるぶしまでの海」は足首が肉体として感じた「海」というよりも、感情・精神が感じた海である。「わたし」は「あなた」のもとへ行くよりも、「あなた」と一緒に土盛海岸へ行って足首を濡らしたかった。肉体があるとしたら、そういう夢を見ている足首が「わたし」にとっての肉体である。感情・精神が「あなた」によって先回りされ(それだけ愛されている、理解されているということになるかもしれない)、まるでそれが「わたし」の夢なのか、「あなた」によって夢見られた「わたし」の夢なのか見分けがつかなくなる。「おらんひと」になってしまう。肉体として、今、ここに存在するのに、感情・精神としては「わたし」ではなく「あなた」になってしまい、存在しなくなる。
おなじ「おらんひと」ということばでありながら、「あなた」と「わたし」では「おらんひと」というときの意味合いが違う。
「わたし」の肉体が「あなた」の感情・精神に乗っ取られる。「あなた」のことばが「わたし」の肉体のなかで、「わたし」の精神・感情となって動く。こういうとき、論理的(?)に考えれば、「わたし」は肉体的に存在し精神的には存在しない。そして「あなた」は肉体的には存在せず精神的に存在する。--詩は、たしかにそういう構造でことばが動いている。
しかし、感情は、そんなふうには考えない。(感じない、と書くべきか。)
「あなた」の感情が「わたし」の感情になることによって、感情はよりいっそうたしかなものになり、その反動として、「わたし」の肉体の存在があやふやになる。肉体と感情のバランスが崩れ、肉体が見えなくなる。(三角にとって、肉体はあくまで感情が把握する存在なのである。)
「いなかって、/いなかった」。それには補語が2種類ある。「感情・精神として」いなかって、「肉体として」いなかった。「原形をとどめて/いな」いということは、そういうことを指すのだが、三角が、わざわざ「いなかって、/いなかった」と繰り返す理由は、そこに補語が2種類あるということを明確にするためである。
ここに、肉体が消えてしまったという意識と、それが肉体を求める悲しい声が同時に存在する。三角の「詩」がある。
こういうことが起きるのは、三角が表紙の折り返しに書いているように「ことばが好き」だからであろう。ことばが好きすぎるからであろう。感情・精神のいれものとしてのことばは、たやすく他人のことばと重なる。「おらんひと」がそうであるように、実際は意味が違うのにおなじものとして存在してしまい、その混同のなかで、何かがかわっていってしまう。肉体が存在すると感じるべきなのに、肉体が存在しないと感じるように……。
ことばが好きで好きでたまらない。一方、肉体も取り戻したい。ことばに拮抗するような肉体の存在感を感じたい--ことばにしたい。
この思考には一種の「矛盾」のようなものがある。だからこそ、私は、そこに三角の「思想」を感じる。肉体を傷つける(たとえば、この詩では足首を切断する)とき、肉体は痛みの声を上げるはずである。(この詩では、痛みを発するよりも先に、恋人が駆けつけ、別の感情を作り上げてしまい、そうすることによって「あなた」も「わたし」も不在の人間になってしまったが……。)その痛みを詩のなかで取り戻そうとする意志を感じる。ことばに、そういう力を与えたい、という意志を感じる。
どの詩からも肉体を求める声が聞こえてくる。感情はあるのに、その入れ物としての肉体がない、感情を入れる肉体が欲しいと泣いている声が聞こえる。「プレゼント」のなかほど。
足首を切断してから
三呼吸目にチャイムがなった
流しの下に
足首をほおりこむ
あまりにも早く
恋人は来た
あまりにも、
早すぎた
もしかしたら
あなたは本当は
おらんひとなのかもしれん
「あなたは本当は/おらんひとなのかもしれん」。このときの「おらん」は感情として存在しないではなく、肉体として存在しないという意味だろう。肉体の移動には時間がかかる。感情の移動には時間はかからない。感情は、いつでも、どこでも存在できる。肉体はそういう具合にはいかない。
「あなた」は肉体であるよりも前に感情である。感情であるから、早く移動することができる。どこへ、かというと、「わたし」の感情へである。感情から感情へ、感情が動く。これを「愛」といえば「愛」だが、三角の不安は、「愛」があまりにも感情的、あるいは精神的すぎるということだろう。
三角の感情・精神を上回って、「あなた」の感情・精神が「わたし」に寄り添う。というよりも、「わたし」の感情を、さらに育ててしまう。「わたし」の感情を先回りしてしまう。
疑ってしまうのだ
恋人は
水色と緑色の混じった
きれいな足首をわたしに差し出した
土盛海岸の色
の足首
なぜ、恋人(あなた)は「水色と緑色の混じった/きれいな足首」を選んだのだろうか。それは「わたし」がひそかに望んだもの、というより、差し出されてみて、それこそが「わたし」の望んだ足首だったわかるようなものを差し出したのか。肉体としては不在、感情・精神としてのみ存在するからである。感情・精神は「ことば」のなかで重なり合い、その重なってしまえば、みわけがつかない。「おらんひと」と同じものになってしまう。(こうした考え方に対して異論を差し挟むことはできるし、本当は反論しなければならないのだけれど、ここでは省略する。私がきょう日記で書きたいと思っているのは、三角にとって「肉体」は存在しない、ゆえに肉体を求める、ということなのだから。)
この詩では足首を切断する、足首を海で拾ってきて切断した足のかわりに結合するということが書かれている。もちろん「比喩」としてそう書かれている。「比喩」であるから、それは本当の肉体ではないのだが、それを上回って(と言っていいのだろうか)、肉体が不在である。
恋人は一言も発せず
手馴れた具合で
わたしに
足首をつけよった
浅い海のなかに居るように心細い
ひんやりとした
くるぶしまでの海
もしかしたら
わたしは本当は
おらんひとなのかもしれん
疑ってしまうのだ
「比喩」とはいいながら、この「比喩」は肉体からはあまりにも遠い。新しい(?)足首は「わたし」の肉体と適合するかどうかよりも前に、感情・精神として動く。「浅い海のなかに居るように心細い/ひんやりとした/くるぶしまでの海」は足首が肉体として感じた「海」というよりも、感情・精神が感じた海である。「わたし」は「あなた」のもとへ行くよりも、「あなた」と一緒に土盛海岸へ行って足首を濡らしたかった。肉体があるとしたら、そういう夢を見ている足首が「わたし」にとっての肉体である。感情・精神が「あなた」によって先回りされ(それだけ愛されている、理解されているということになるかもしれない)、まるでそれが「わたし」の夢なのか、「あなた」によって夢見られた「わたし」の夢なのか見分けがつかなくなる。「おらんひと」になってしまう。肉体として、今、ここに存在するのに、感情・精神としては「わたし」ではなく「あなた」になってしまい、存在しなくなる。
おなじ「おらんひと」ということばでありながら、「あなた」と「わたし」では「おらんひと」というときの意味合いが違う。
「わたし」の肉体が「あなた」の感情・精神に乗っ取られる。「あなた」のことばが「わたし」の肉体のなかで、「わたし」の精神・感情となって動く。こういうとき、論理的(?)に考えれば、「わたし」は肉体的に存在し精神的には存在しない。そして「あなた」は肉体的には存在せず精神的に存在する。--詩は、たしかにそういう構造でことばが動いている。
しかし、感情は、そんなふうには考えない。(感じない、と書くべきか。)
「あなた」の感情が「わたし」の感情になることによって、感情はよりいっそうたしかなものになり、その反動として、「わたし」の肉体の存在があやふやになる。肉体と感情のバランスが崩れ、肉体が見えなくなる。(三角にとって、肉体はあくまで感情が把握する存在なのである。)
台所の床の上で
乱暴なセックスをしたら
わたしたち
もう原形をとどめて
いなかって、
いなかった
「いなかって、/いなかった」。それには補語が2種類ある。「感情・精神として」いなかって、「肉体として」いなかった。「原形をとどめて/いな」いということは、そういうことを指すのだが、三角が、わざわざ「いなかって、/いなかった」と繰り返す理由は、そこに補語が2種類あるということを明確にするためである。
ここに、肉体が消えてしまったという意識と、それが肉体を求める悲しい声が同時に存在する。三角の「詩」がある。
こういうことが起きるのは、三角が表紙の折り返しに書いているように「ことばが好き」だからであろう。ことばが好きすぎるからであろう。感情・精神のいれものとしてのことばは、たやすく他人のことばと重なる。「おらんひと」がそうであるように、実際は意味が違うのにおなじものとして存在してしまい、その混同のなかで、何かがかわっていってしまう。肉体が存在すると感じるべきなのに、肉体が存在しないと感じるように……。
ことばが好きで好きでたまらない。一方、肉体も取り戻したい。ことばに拮抗するような肉体の存在感を感じたい--ことばにしたい。
この思考には一種の「矛盾」のようなものがある。だからこそ、私は、そこに三角の「思想」を感じる。肉体を傷つける(たとえば、この詩では足首を切断する)とき、肉体は痛みの声を上げるはずである。(この詩では、痛みを発するよりも先に、恋人が駆けつけ、別の感情を作り上げてしまい、そうすることによって「あなた」も「わたし」も不在の人間になってしまったが……。)その痛みを詩のなかで取り戻そうとする意志を感じる。ことばに、そういう力を与えたい、という意志を感じる。