詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀『カナシヤル』

2006-11-02 23:45:37 | 詩集
 三角みづ紀カナシヤル』(思潮社)(2006年10月15日発行)。
 どの詩からも肉体を求める声が聞こえてくる。感情はあるのに、その入れ物としての肉体がない、感情を入れる肉体が欲しいと泣いている声が聞こえる。「プレゼント」のなかほど。

足首を切断してから
三呼吸目にチャイムがなった
流しの下に
足首をほおりこむ
あまりにも早く
恋人は来た
あまりにも、
早すぎた

もしかしたら
あなたは本当は
おらんひとなのかもしれん

 「あなたは本当は/おらんひとなのかもしれん」。このときの「おらん」は感情として存在しないではなく、肉体として存在しないという意味だろう。肉体の移動には時間がかかる。感情の移動には時間はかからない。感情は、いつでも、どこでも存在できる。肉体はそういう具合にはいかない。
 「あなた」は肉体であるよりも前に感情である。感情であるから、早く移動することができる。どこへ、かというと、「わたし」の感情へである。感情から感情へ、感情が動く。これを「愛」といえば「愛」だが、三角の不安は、「愛」があまりにも感情的、あるいは精神的すぎるということだろう。
 三角の感情・精神を上回って、「あなた」の感情・精神が「わたし」に寄り添う。というよりも、「わたし」の感情を、さらに育ててしまう。「わたし」の感情を先回りしてしまう。

疑ってしまうのだ
恋人は
水色と緑色の混じった
きれいな足首をわたしに差し出した
土盛海岸の色
の足首

 なぜ、恋人(あなた)は「水色と緑色の混じった/きれいな足首」を選んだのだろうか。それは「わたし」がひそかに望んだもの、というより、差し出されてみて、それこそが「わたし」の望んだ足首だったわかるようなものを差し出したのか。肉体としては不在、感情・精神としてのみ存在するからである。感情・精神は「ことば」のなかで重なり合い、その重なってしまえば、みわけがつかない。「おらんひと」と同じものになってしまう。(こうした考え方に対して異論を差し挟むことはできるし、本当は反論しなければならないのだけれど、ここでは省略する。私がきょう日記で書きたいと思っているのは、三角にとって「肉体」は存在しない、ゆえに肉体を求める、ということなのだから。)

 この詩では足首を切断する、足首を海で拾ってきて切断した足のかわりに結合するということが書かれている。もちろん「比喩」としてそう書かれている。「比喩」であるから、それは本当の肉体ではないのだが、それを上回って(と言っていいのだろうか)、肉体が不在である。

恋人は一言も発せず
手馴れた具合で
わたしに
足首をつけよった
浅い海のなかに居るように心細い
ひんやりとした
くるぶしまでの海

もしかしたら
わたしは本当は
おらんひとなのかもしれん
疑ってしまうのだ

 「比喩」とはいいながら、この「比喩」は肉体からはあまりにも遠い。新しい(?)足首は「わたし」の肉体と適合するかどうかよりも前に、感情・精神として動く。「浅い海のなかに居るように心細い/ひんやりとした/くるぶしまでの海」は足首が肉体として感じた「海」というよりも、感情・精神が感じた海である。「わたし」は「あなた」のもとへ行くよりも、「あなた」と一緒に土盛海岸へ行って足首を濡らしたかった。肉体があるとしたら、そういう夢を見ている足首が「わたし」にとっての肉体である。感情・精神が「あなた」によって先回りされ(それだけ愛されている、理解されているということになるかもしれない)、まるでそれが「わたし」の夢なのか、「あなた」によって夢見られた「わたし」の夢なのか見分けがつかなくなる。「おらんひと」になってしまう。肉体として、今、ここに存在するのに、感情・精神としては「わたし」ではなく「あなた」になってしまい、存在しなくなる。

 おなじ「おらんひと」ということばでありながら、「あなた」と「わたし」では「おらんひと」というときの意味合いが違う。
 「わたし」の肉体が「あなた」の感情・精神に乗っ取られる。「あなた」のことばが「わたし」の肉体のなかで、「わたし」の精神・感情となって動く。こういうとき、論理的(?)に考えれば、「わたし」は肉体的に存在し精神的には存在しない。そして「あなた」は肉体的には存在せず精神的に存在する。--詩は、たしかにそういう構造でことばが動いている。
 しかし、感情は、そんなふうには考えない。(感じない、と書くべきか。)
 「あなた」の感情が「わたし」の感情になることによって、感情はよりいっそうたしかなものになり、その反動として、「わたし」の肉体の存在があやふやになる。肉体と感情のバランスが崩れ、肉体が見えなくなる。(三角にとって、肉体はあくまで感情が把握する存在なのである。)

台所の床の上で
乱暴なセックスをしたら
わたしたち
もう原形をとどめて
いなかって、
いなかった

 「いなかって、/いなかった」。それには補語が2種類ある。「感情・精神として」いなかって、「肉体として」いなかった。「原形をとどめて/いな」いということは、そういうことを指すのだが、三角が、わざわざ「いなかって、/いなかった」と繰り返す理由は、そこに補語が2種類あるということを明確にするためである。
 ここに、肉体が消えてしまったという意識と、それが肉体を求める悲しい声が同時に存在する。三角の「詩」がある。
 こういうことが起きるのは、三角が表紙の折り返しに書いているように「ことばが好き」だからであろう。ことばが好きすぎるからであろう。感情・精神のいれものとしてのことばは、たやすく他人のことばと重なる。「おらんひと」がそうであるように、実際は意味が違うのにおなじものとして存在してしまい、その混同のなかで、何かがかわっていってしまう。肉体が存在すると感じるべきなのに、肉体が存在しないと感じるように……。

 ことばが好きで好きでたまらない。一方、肉体も取り戻したい。ことばに拮抗するような肉体の存在感を感じたい--ことばにしたい。
 この思考には一種の「矛盾」のようなものがある。だからこそ、私は、そこに三角の「思想」を感じる。肉体を傷つける(たとえば、この詩では足首を切断する)とき、肉体は痛みの声を上げるはずである。(この詩では、痛みを発するよりも先に、恋人が駆けつけ、別の感情を作り上げてしまい、そうすることによって「あなた」も「わたし」も不在の人間になってしまったが……。)その痛みを詩のなかで取り戻そうとする意志を感じる。ことばに、そういう力を与えたい、という意志を感じる。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アレクサンドル・ソクーロフ監督「ファザー、サン」

2006-11-02 23:07:11 | 映画
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演アンドレイ・シチェティーニン、アレクセイ・ネムィシェフ

 印象的なシーンがふたつある。
 ひとつは悪夢から醒める息子の口のアップ。ゆがんでいる。ねじれ、ひきのばされ、立体が平面に変化していくような感じである。この映像は、悪夢でうなされる息子を力ずくで押さえ込む父親の肉体とのからみのあとで出現するので、まるで同性愛の男が、互いを征服しようとして争いながら、最後に射精して果ててしまう絶望のような暗い内部(口の中)をのぞかせる。内部からの熱で、存在そのものがぐりゃーっと伸びて変形したような印象もある。そして、その内部からの熱によって表面が変形していくという印象が、またセックスを思わせるのである。「父にまた助けられた」という息子の声がなければ、同性愛の男同士の生活を描いた映画と思ってしまうだろう。この口のアップに象徴される、ゆがんだシーンは、悪夢の1シーン、息子がひとりで立っている映像も同じである。縦方向に引き延ばされ、ゆがんだ感じがする。
 (ゆがんだ映像は、そのあとも繰り返される。似た感じがするシーンもある。父を訪ねてくる父の友人の息子と街を歩く、そのときの映像も、立てに引き延ばされ、横に圧縮されたような、奇妙な印象がある。ここにも、同性愛の嫉妬の反映のようなものが、少なからず感じられる。)
 もうひとつは、息子が恋人と軍人養成学校で窓越しに会話するシーン。窓の枠が顔にかかり、半分しか見えない。ときどき顔全体が映し出されるが、ほとんどは顔の片側、片方の目だけである。しかも、その窓は閉ざされているのではなく、少し開いている。隙間がある。その隙間越しに、わざわざ相手をのぞいている感じがする。そんなところからのぞかなくても、顔をガラスに正面にもってくればきちんと見えるのにそうしない。わざと半分を隠している印象が残る。
 たぶん、「半分」というのがこの映画のテーマなのだと思う。(父親だけがいて母親がいないというのも親が「半分」ということをあらわしているのかもしれない。)そして、その「半分」というのは、妻のいない父親(半分)、母のいない息子(半分)が一緒になって、「半分」+「半分」=「1」という関係ではなく、ふたりが一緒にいることによって、ふたりとも「半分」でしかない、「半分」を強いられるという意味である。
 父は母親のことを隠している。隠すつもりはないだろうが、すべてを語ってはいない。軍隊でのできごとも同じである。二人が接近するとき、ふたりは「隠された半分」がどこかにあると、常に意識してしまうのである。会話することによって「半分」になってしまうのである。
 何か「半分」隠している、隠しているものがあるはずだ、ということは、父の仲間の息子が訪ねてくることで明らかになる。窓枠越しの恋人との会話と同じように、父と息子は「半分」を隠しながら会話している。たぶん、すべてを語るのではなく「半分」隠すことで、息子を気づかっているのだろう。言ってはいけない何かがある。(これは、だれの人生でも同じだろう。)
 息子もまた父に対して「半分」なにごとかを隠している。父に対する思いのすべてを語っているわけではないだろう。
 そして、ふたりはその「半分」隠されたものをつかむために、今ある半分をぐぐーっと引き延ばす。それは悪夢の叫びの口のようにゆがむ。路面電車が走る街のように、あるいは走る電車そのもののように、何か力付くでひきのばされて、映像がゆがんでしまう。そして、そのゆがみが、父と子の会話をより複雑なものにする。かみあわず、突発的に爆発する。

 和解はやってこないのだろうか。ゆがみは解消されないのだろうか。

 スクーロフは、人間は常に「半分」を隠しているということを明確にすることで和解へと二人を導いていく。
 父の友人の息子が父を訪ねてくる。父について、息子の父に尋ねる。そのことをとおして、息子は、父には息子の知らない人生、隠された部分があることを知る。息子は父の友人の息子に対して、激しい嫉妬を燃やすが、それは父の友人の息子が、彼の知らないことを知っている(知る手がかりをもっている)からである。隠された「半分」を父の友人の息子がのぞきみているからである。
 この「半分」を人間の内面と呼ぶとき、それは息子が大事にしている父の胸のレントゲン写真と「暗喩」のなかで重なり合う。隠された「半分」、人間の「内部」を人はのぞく。(息子から悪夢の話を聞く父にとっては、その悪夢を語ることばが息子の内面、隠された「半分」へとつながる)。その隠された「内部」、肉体の中にあるものを吐き出させるために、肉体が接近する。ぶつかりあう。あるいは、触れないということで、触れるよりも激しく、内部を燃え上がらせる。(これもまた、セックスそのものである。)そして、そこから「ゆがんだ口」(肉体の内部をのぞかせる暗い暗い淵)があらわれ、声にならない声を発する。
 人間が、常に「半分」を隠して生きていると知ったとき、息子は、父を受け入れる。そして和解が成立する。「半分」+「半分」=「1」ではなく、「半分」であることが他人であるという証拠なのである。それは冒頭のセックスじみたからみあいのように、ひとつをめざして重なり合ってはならないものなのだ。逆に離れることで「半分」が「1」であることを知らなければならないのである。人間は相手と向き合ったとき、正面は見えても背面は見えない。「半分」は見えないのが人と人の関係なのである。
 雪の朝、父親が屋上へ出ていく。息子がベッドから声をかける。「そこに私はいるか」「いない」。それが、和解である。冒頭の悪夢で同じ質問を父がしていた。「そこに私はいるか」息子は「いない」と答え、その不在が、父と子の、ねじれた苦悩の出発点だったが、「不在」であることが正しいのだと知ることで父と子は和解する。それぞれ「ひとり」になっていく。この雪のシーンはとても美しい。
 もっとも、この和解は、いささか唐突な感じがする。美しすぎる感じがする。

 こんな、とってつけたような「和解」よりも、まるで「和解」を拒んでいるような父と子の肉体、それをとらえる映像がこの映画のほんとうの魅力かもしれない。「和解」にいたるまでの「苦悩」がこの映画の魅力かもしれない。
 人間は皮膚でつつまれ、その内部は見えない。見えないはずなのに、その肌が透明になり、(特に、息子のはりつめた白い肌の透明さが印象的だ)、肌の裏側からこころが滲み出してくるような映像。こころだけでなく、まるでうっすらと血の滲んだ筋肉が滲み出してくるような映像。(実際に、皮膚を剥いだ筋肉図?のようなものが壁に飾ってあったりするのだが。)愛と憎しみがまじりあい、それがことばではなく、生々しい筋肉となって滲み出してくるような映像がこの映画の魅力である。夕暮れの弱い光が、その滲み出してくる肉体の動き陰影を与える。どんなちいさな肉体の震えであっても、夕暮れの斜めに射してくる光のなかで長くて深い影をつくる。その「ひだ」を見ているような、奇妙な苦しさにおそわれる。感情は、見えないこころに宿っているのではなく、見ることも、手で触れることさえできる肉体、筋肉に宿っている。肉体は近付くだけで、それを互いに感じ取る。そういう動きを見ているようだ。同性愛と近親相姦の二重のタブーの前で立ち止まって苦悩する肉体を見ているような錯覚を覚える。
 これはもしかすると、父と子の「和解神話」という構造、暗喩に満ちたセリフを利用しながらつくられた、同性愛への手引きの映画かもしれない。快楽ではなく苦悩で誘う分、しまつが悪いかもしれない。どんな快楽に対しても、人は簡単に「それのどこが気持ちがいい?」と否定することができるが、苦悩に対しては、それがどんな苦悩であるにしろ「その苦悩など取るに足りない」とは否定しにくい。苦悩に寄り添うのがヒューマニズムであるという意識があるからだ。スクーロフのこの映画は、どこかで、そういうものをひっそりと利用している気がする。とてもしまつが悪い。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする