詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤田晴央『ひとつのりんご』

2006-11-03 14:26:55 | 詩集
 藤田晴央ひとつのりんご』(鳥影社)(2006年10月15日発行)。
 藤田の詩は、どれも静かである。いわゆる現代詩の匂いがしない。ことばが目の前にある桜や川や何かと融合している。融合しながら、すーっと流れてていってしまう。その静けさにこころが洗われる。その流れは、川の流れがそうであるように、岩か何かにぶつかってうねり、しぶきをあげることもある。しかし、そのすべてが森や山や川や海といった自然のなかにのみこまれていく。それがあまりにも自然なのである。そのために静かなという印象が生まれる。
 山や川、海といった風土としての「自然」、そしてそのなかで何かが起き、やがて過ぎ去っていくことの「自然」。「自然」にはふたつの意味合いがあるが、そのふたつものが「ひとつ」になっている。その「ひとつ」になっているという印象が、静かという感じにつながる。
 そして、全体を読み終わったあと、感想を書こうとしてふたたび「ひとつのりんご」を読み返して驚く。「ひとつ」ということばが、そこにある。「自然」(風土)と「自然」(人事、ととりあえず書いておく)が溶け合った状態を指す「ひとつ」につうじる「ひとつ」が、すでに、そこに書かれている。

りんごがゆっくり降ってくる
青空の中をいくつもいくつも
きみはその中のひとつを受けとめ
手のひらに包んでみつめている
かなしいくらいに静かな真昼
あの日も 今も

 この詩の中に登場する「複数」はふたつある。
 ひとつは「りんご」。「いくつもいくつも」降ってくるりんご。
 もうひとつは「あの日」と「今」。複数の時間を藤田はみつめている。意識している。その意識につらぬかれて時間は「ひとつ」になっている。思い出、記憶、というより、感情になっている。感情は、いつもいつも、ひとりの人間のなかではひとつである。ひとりの肉体(手のひら)のなかでは、いつも「ひとつ」である。「りんご」は「りんご」であると同時に、感情の象徴である。
 感情を動かしていくものは、いくつもいくつも降ってくるりんごのように、いくつもあるだろうけれど、そのときも実はこころは「ひとつ」である。その「ひとつ」としっかり意識するようにして、「きみはその中のひとつを受けとめ」るのだろう。いや、「ひとつ」を受け止めることで、こころをしっかりと「ひとつ」のものに収斂させるのかもしれない。そうなることを願って「ひとつ」ということばが選ばれているのだろう。

 藤田にとって「ひとつ」というのは重要なことばなのである。あらゆるものは「ひとつ」になる。たとえば「さくらさくら」。その終盤近く。

あれからどれくらいの時がたったのでしょう
今もわたしはさくらが咲くと
思い出すのです
あなたのことを
まぶしい哀しさが
この目から心へと
走ってゆくのです

 「あれ」(あのころ)と「今」が「ひとつ」になる。「さくら」と「あなた」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」とは「まぶしい哀しさ」という感情、こころである。「目から心へ」とは「肉体」から「こころ」へということだろう。その動きのなかで、肉体とこころも「ひとつ」になる。分離できないものになる。「肉体」と「こころ」はふつたの存在ではなく、融合した「ひとつ」の存在である。

 風土としての自然は季節のなかで繰り返し同じことをする。人間もまた、日常のなかで同じことを繰り返す。繰り返すことで、それが「複数」になるのではなく「ひとつ」になる。繰り返せば繰り返すほど、「複数」であるべきものが互いにその違いをのみこみながら「ひとつ」に溶け合うようでもある。

 「満開」の最後の数行は、一読すると、「ひとつ」とは違うことを書いているようにも見える。

わたしたちも心の中にいろんな色をもっているけれど
どうしてもなれない色があって
あちらに流れたりこちらに流れたりしながら
似ているのに微妙にちがう色を
無数に生み出している

 「いろんな色」「似ているのに微妙にちがう色」「無数」。これはすべて「複数」である。ところがその「複数」を浮かび上がらせるのは「どうしてもなれない色」という「ひとつ」の存在である。ほんとうは「ひとつ」をめざしている。そこにたどりつけないために「複数」の状態でいる。
 それはたとえていえば「あの日」と「今」が、最初は「複数」として浮かび上がってくるのと同じである。「あの日」と「今」は違う。違うけれど、その違いを意識するこころのなかに「ひとつ」がある。違うからこそ、結びつけ、融合したいという「ひとつ」の気持ちが動く。そのとの揺れ動きが「無数」にある。「無数」は「ひとつ」へたどりつくための過程なのである。
 この「ひとつ」を「しあわせ」と置き換えれば、それはそのまま「思想」である。人が「しあわせ」であってほしいと願う以上の「思想」は世の中には存在しない。最後に、そういう願いが静かに語られる「焚火」。そのなかほどの部分。

息子の手首くらいから
わたしの親指くらいの太さの枯れ枝を
朽木の竈(かまど)に積み上げていく
あたりには嵐の日に吹き飛ばされた枝が
たくさん落ちている
ブラ、ミズナラ、サワグルミ
長いのは足をかけてへし折り
わきに積み上げておく
最後に竈の真ん中に細い枝を放りこみ
新聞紙に火をつけてねじりこむ
新聞紙が燃えつきても炎は上がらない
じっとみていると細い枝が絡み合っているあたりから
白い煙が紐のように立ち上がる
紐の根元を俎板がわりのベニヤ板で扇ぐ
ふっと蝋燭の火がともったように
小さな炎が揺らぐ
あとはゆっくり扇いでいればいい
息子の人生にもこんなふうに火がともればよいのだが


コメント (1)
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