詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケン・ローチ監督「麦の穂をゆらす風」

2006-11-25 14:36:53 | 映画
監督 ケン・ローチ 出演 キリアン・マーフィー、ボードリック・ディレーニー、リーアム・カニング

 風景がとてつもなく美しい。木々の緑、草の緑、それをつつむ空気。その「空気」がスクリーンに映し出されている。
 緑は美しいが大地が豊かであるというわけではない。広がっているのは畑ではなく原野である。山である。それは育っているというより大地にしがみついているという感じがする。そこにだけしか生きられない草が、木が、大地にしがみついて、しがみつきながら、それでも美しい緑を輝かせている。自分の土地を味わい、自分の空気を吸って、厳しさに絶えながらそれでもしっかり生きている。
 この緑は、この映画の主人公たちの姿そのものである。
 アイルランドの小さな街。生まれ育った土地。そこで自由に生きたい。他人に(英国に)支配されず、自分の意志で生きて行きたい。ここに住む人間の意志を踏みにじるものは許せない。そうした思いが主人公を独立への戦争へ駆り立てる。
 この映画がすばらしいのは、そうした戦いをするアイルランド人を「自然」として描いていることである。大地から知らないうちに生えてきた草や木のように描いていることである。主人公は、英国風の名前をいうことを拒んだだけで友達が殺されるのを目撃する。英国兵をのせることを拒んだだけで殴られる鉄道の運転士を目撃する。自分の体を犠牲にして信念を貫く人間を見る。そして、その目撃から怒りが芽生え、主人公が立ち上がる。怒りが大地になって、草や木を育てるように主人公を育てる。主人公が育っていく大地には、無残に殺された友人の血がしみ込んでいる。理不尽な理由で殴られた運転士の流した血がしみ込んでいる。大地の無残な血を、無念を吸い上げながら、主人公の怒り、闘志は育っていくのである。
 美しいシーンはいくつもあるが、私が特に好きなのは、主人公の青年が最初にする軍事訓練である。そこでの教訓はただひとつ。姿をあらわすな。ひたすら隠れろ。たばこ一箱分でも姿が見えれば英国人に銃殺される。それは大地、岩や、木や、草と一体になれ、という意味でもある。そして、それがほんとうに美しいのは、そのとき、彼らは銃ではなく、ホッケーのスティックに似たものをかかえて匍匐前進するからである。アイルランド特有のスポーツ(そのスポーツさえ許さない英国軍隊が映画の冒頭にあらわれる)の道具。それをもって訓練しているということは、描かれてはないけれども、訓練のあとには彼らはそのスポーツを楽しんだということのあかしだろう。怒り、憎しみだけではない。人はいつもこころに「余裕」をもって生きている。
 だから、恋愛もするのだ。過酷な戦いのなかで、ふっと息づくこころ。命の欲望。そうしたものが「自然」のままに、的確に挿入され、映画全体を豊かにする。細部がとてもきめこまかく、美しいのである。

 だが、そんなふうにして育った木や草がいつもいつも協力して生きていくわけではない。育ちながら、その土地にはない「栄養」(肥料)をどうしても求めるものもでてくれば、そうした肥料はいま生きている草木を犠牲にしてしまうと反発するものもいる。
 自分が根を張った場所を正しいと信じ、ときには同じ場所で戦わなければならない。自分が生きるために、さっきまでいっしょに生きていたものを殺してしまうこともある。自然の過酷さが、ここにある。信念の過酷さがここにある。自然は美しい。信念も美しい。しかし、自然も信念も過酷なのだ。過酷であることを体験して草木は育ち、また死んで行く。同じように、人間もまた世界が過酷であることを体験しながら死んで行く。

 こうした生き方に何か救いはあるだろうか。
 アイルランドの古い歌だろうか。英国軍隊によって理不尽な理由で殺された息子--その息子の葬儀に老人が歌う歌が救いである。希望である。
 死んだ男、流した血の上に麦は生え、やがて麦の穂は実り、風がゆする。
 豊かな麦の穂をゆらす風は、この映画には登場しない。麦の穂の実りも登場しない。ただ、荒れた大地にへばりついて生きている草が、木が登場するだけだが、それを豊かな麦にかえるのは、流された若者の血しかない。そう告げるのだが、その断言のなかに、絶対にこの血をむだにしないという決意が潜んでいる。希望が潜んでいる。

 この映画は悲しい映画である。悲しいけれど、悲しみが怒りに、怒りが力にかわることをひそかに願っている映画である。人間の「自然」は悲しみを怒りに、怒りを力にかわるはずだと、この映画は願っている。それが人間の「自然」だと。
 また、自然が自然本来の姿を失ったのは(より過酷になってしまったのは)、そこに「侵入者」があったからだと、この映画は告げる。アイルランドの不孝はイギリスに原因があると告げる。それはイギリスがアイルランドから出ていけば、アイルランドは自然にかえることができるのだということでもある。
 そのときまで、怒りの大地は怒りの大地のままである。侵略者が去ったときこそ、流された大地から麦が生え、そしてその穂をゆらす風も吹くのである。
 老女が歌った歌は追悼歌、鎮魂歌であると同時に「祈り」でもある。

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清岡卓行論のためのメモ(1)

2006-11-25 12:06:42 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『氷った焔』かち「石膏」。その最終連。

石膏の皮膚をやぶる血の洪水
針の尖で鏡を突き刺す さわやかなその腐臭

石膏の均整を犯す焔の循環
獣の舌で星を舐め取る きよらかなその暗涙

ざわめく死の群の輪舞のなかで
きみと宇宙をぼくに一致せしめる
最初の そして 涯しらぬ夜

 「きみと宇宙をぼくに一致せしめる」の「一致」。清岡は常にある存在とある存在、かけはなれたものを「一致」させる。詩は異質なものの出会いによって生まれるが、清岡はその出会いを出会いのまま終わらせない。出会ったものを「一致」させる。
 この詩はいささか欲張りにできていて、「きみ」(石膏)と「ぼく」が一致するだけではなく、「石膏」がかかえている「宇宙」と「ぼく」が「一致」する。
 これは「石膏」のかかえる「宇宙」と「ぼく」がかかえる「宇宙」が出会い、そのふたつの「宇宙」が「一致」するという意味である。そして、このとき「一致」とは「融合する」「合体する」、そしてその結果「ひとつ」の存在になるということである。
 「石膏」と「ぼく」はもちろん別々の輪郭をもっていて、融合することも、合体することもできない。しかし、それぞれの「宇宙」はどうか。「宇宙」はもちろん「比喩」である。そして「比喩」であるからこそ、それは「一致」する。融合する。合体する。「ひとつ」になる。

 いま、私は、清岡が「宇宙」ということばを詩のなかでどれくらいつかっているか思い出すことができないが、この作品に書かれている「宇宙」、比喩としての「宇宙」は、清岡の作品にとって非常に重要なことばだと思う。
 清岡はある存在と別の存在、この詩では「石膏」と「ぼく」を描くが、そうしたふたつの存在はかならず融合する。ふたつの存在の間には深くは意識されていない「間」(空間、時間を含める広がり)がある。その「間」を丁寧にことばで測り、触れ合えるなにかを探す。そして、その触れ合えるものを手がかりに、少しずつ「間」を縮めていく。あるいは、ことばでその「間」を埋めていく。そのとき、そこにいままで見えなかった「世界」が広がり、すべてが融合する。そして新しい「世界」になる。
 この「間」(空間、時間)、そして新しい「世界」はすべて「宇宙」ということば、「宇宙」という比喩でも代弁できるものである。

 この詩のなかのもうひとつ大切なことばは「と」である。

きみと宇宙をぼくに一致せしめる

 この行は、たぶん「きみの宇宙とぼくの宇宙とを一致せしめる」と言い換えることができる。(少なくとも、私は、そんなふうにことばを補ってこの作品を読んでいる。)この作品で描かれているのは「きみ(石膏)の宇宙」と「ぼくの宇宙」であり、それを分離すると同時に結びつけているのが「と」という格助詞である。
 「と」ということばがなければ、清岡の作品は成立しない。
 石膏「と」ぼく。「と」によってふたつのものが出会い、その「間」を測り、そこに出現するものをことばで埋める。そこに広がる「宇宙」がやがて、「石膏」と「ぼく」をのみこむように融合・合体する。
 そしてそのとき「と」は消えていく。

 消えていくための「と」、消滅するための「と」。そこに清岡の「詩」がある。清岡の作品は「と」によって誕生し、「と」の消滅によって完成する。
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