監督 ケン・ローチ 出演 キリアン・マーフィー、ボードリック・ディレーニー、リーアム・カニング
風景がとてつもなく美しい。木々の緑、草の緑、それをつつむ空気。その「空気」がスクリーンに映し出されている。
緑は美しいが大地が豊かであるというわけではない。広がっているのは畑ではなく原野である。山である。それは育っているというより大地にしがみついているという感じがする。そこにだけしか生きられない草が、木が、大地にしがみついて、しがみつきながら、それでも美しい緑を輝かせている。自分の土地を味わい、自分の空気を吸って、厳しさに絶えながらそれでもしっかり生きている。
この緑は、この映画の主人公たちの姿そのものである。
アイルランドの小さな街。生まれ育った土地。そこで自由に生きたい。他人に(英国に)支配されず、自分の意志で生きて行きたい。ここに住む人間の意志を踏みにじるものは許せない。そうした思いが主人公を独立への戦争へ駆り立てる。
この映画がすばらしいのは、そうした戦いをするアイルランド人を「自然」として描いていることである。大地から知らないうちに生えてきた草や木のように描いていることである。主人公は、英国風の名前をいうことを拒んだだけで友達が殺されるのを目撃する。英国兵をのせることを拒んだだけで殴られる鉄道の運転士を目撃する。自分の体を犠牲にして信念を貫く人間を見る。そして、その目撃から怒りが芽生え、主人公が立ち上がる。怒りが大地になって、草や木を育てるように主人公を育てる。主人公が育っていく大地には、無残に殺された友人の血がしみ込んでいる。理不尽な理由で殴られた運転士の流した血がしみ込んでいる。大地の無残な血を、無念を吸い上げながら、主人公の怒り、闘志は育っていくのである。
美しいシーンはいくつもあるが、私が特に好きなのは、主人公の青年が最初にする軍事訓練である。そこでの教訓はただひとつ。姿をあらわすな。ひたすら隠れろ。たばこ一箱分でも姿が見えれば英国人に銃殺される。それは大地、岩や、木や、草と一体になれ、という意味でもある。そして、それがほんとうに美しいのは、そのとき、彼らは銃ではなく、ホッケーのスティックに似たものをかかえて匍匐前進するからである。アイルランド特有のスポーツ(そのスポーツさえ許さない英国軍隊が映画の冒頭にあらわれる)の道具。それをもって訓練しているということは、描かれてはないけれども、訓練のあとには彼らはそのスポーツを楽しんだということのあかしだろう。怒り、憎しみだけではない。人はいつもこころに「余裕」をもって生きている。
だから、恋愛もするのだ。過酷な戦いのなかで、ふっと息づくこころ。命の欲望。そうしたものが「自然」のままに、的確に挿入され、映画全体を豊かにする。細部がとてもきめこまかく、美しいのである。
だが、そんなふうにして育った木や草がいつもいつも協力して生きていくわけではない。育ちながら、その土地にはない「栄養」(肥料)をどうしても求めるものもでてくれば、そうした肥料はいま生きている草木を犠牲にしてしまうと反発するものもいる。
自分が根を張った場所を正しいと信じ、ときには同じ場所で戦わなければならない。自分が生きるために、さっきまでいっしょに生きていたものを殺してしまうこともある。自然の過酷さが、ここにある。信念の過酷さがここにある。自然は美しい。信念も美しい。しかし、自然も信念も過酷なのだ。過酷であることを体験して草木は育ち、また死んで行く。同じように、人間もまた世界が過酷であることを体験しながら死んで行く。
こうした生き方に何か救いはあるだろうか。
アイルランドの古い歌だろうか。英国軍隊によって理不尽な理由で殺された息子--その息子の葬儀に老人が歌う歌が救いである。希望である。
死んだ男、流した血の上に麦は生え、やがて麦の穂は実り、風がゆする。
豊かな麦の穂をゆらす風は、この映画には登場しない。麦の穂の実りも登場しない。ただ、荒れた大地にへばりついて生きている草が、木が登場するだけだが、それを豊かな麦にかえるのは、流された若者の血しかない。そう告げるのだが、その断言のなかに、絶対にこの血をむだにしないという決意が潜んでいる。希望が潜んでいる。
この映画は悲しい映画である。悲しいけれど、悲しみが怒りに、怒りが力にかわることをひそかに願っている映画である。人間の「自然」は悲しみを怒りに、怒りを力にかわるはずだと、この映画は願っている。それが人間の「自然」だと。
また、自然が自然本来の姿を失ったのは(より過酷になってしまったのは)、そこに「侵入者」があったからだと、この映画は告げる。アイルランドの不孝はイギリスに原因があると告げる。それはイギリスがアイルランドから出ていけば、アイルランドは自然にかえることができるのだということでもある。
そのときまで、怒りの大地は怒りの大地のままである。侵略者が去ったときこそ、流された大地から麦が生え、そしてその穂をゆらす風も吹くのである。
老女が歌った歌は追悼歌、鎮魂歌であると同時に「祈り」でもある。
風景がとてつもなく美しい。木々の緑、草の緑、それをつつむ空気。その「空気」がスクリーンに映し出されている。
緑は美しいが大地が豊かであるというわけではない。広がっているのは畑ではなく原野である。山である。それは育っているというより大地にしがみついているという感じがする。そこにだけしか生きられない草が、木が、大地にしがみついて、しがみつきながら、それでも美しい緑を輝かせている。自分の土地を味わい、自分の空気を吸って、厳しさに絶えながらそれでもしっかり生きている。
この緑は、この映画の主人公たちの姿そのものである。
アイルランドの小さな街。生まれ育った土地。そこで自由に生きたい。他人に(英国に)支配されず、自分の意志で生きて行きたい。ここに住む人間の意志を踏みにじるものは許せない。そうした思いが主人公を独立への戦争へ駆り立てる。
この映画がすばらしいのは、そうした戦いをするアイルランド人を「自然」として描いていることである。大地から知らないうちに生えてきた草や木のように描いていることである。主人公は、英国風の名前をいうことを拒んだだけで友達が殺されるのを目撃する。英国兵をのせることを拒んだだけで殴られる鉄道の運転士を目撃する。自分の体を犠牲にして信念を貫く人間を見る。そして、その目撃から怒りが芽生え、主人公が立ち上がる。怒りが大地になって、草や木を育てるように主人公を育てる。主人公が育っていく大地には、無残に殺された友人の血がしみ込んでいる。理不尽な理由で殴られた運転士の流した血がしみ込んでいる。大地の無残な血を、無念を吸い上げながら、主人公の怒り、闘志は育っていくのである。
美しいシーンはいくつもあるが、私が特に好きなのは、主人公の青年が最初にする軍事訓練である。そこでの教訓はただひとつ。姿をあらわすな。ひたすら隠れろ。たばこ一箱分でも姿が見えれば英国人に銃殺される。それは大地、岩や、木や、草と一体になれ、という意味でもある。そして、それがほんとうに美しいのは、そのとき、彼らは銃ではなく、ホッケーのスティックに似たものをかかえて匍匐前進するからである。アイルランド特有のスポーツ(そのスポーツさえ許さない英国軍隊が映画の冒頭にあらわれる)の道具。それをもって訓練しているということは、描かれてはないけれども、訓練のあとには彼らはそのスポーツを楽しんだということのあかしだろう。怒り、憎しみだけではない。人はいつもこころに「余裕」をもって生きている。
だから、恋愛もするのだ。過酷な戦いのなかで、ふっと息づくこころ。命の欲望。そうしたものが「自然」のままに、的確に挿入され、映画全体を豊かにする。細部がとてもきめこまかく、美しいのである。
だが、そんなふうにして育った木や草がいつもいつも協力して生きていくわけではない。育ちながら、その土地にはない「栄養」(肥料)をどうしても求めるものもでてくれば、そうした肥料はいま生きている草木を犠牲にしてしまうと反発するものもいる。
自分が根を張った場所を正しいと信じ、ときには同じ場所で戦わなければならない。自分が生きるために、さっきまでいっしょに生きていたものを殺してしまうこともある。自然の過酷さが、ここにある。信念の過酷さがここにある。自然は美しい。信念も美しい。しかし、自然も信念も過酷なのだ。過酷であることを体験して草木は育ち、また死んで行く。同じように、人間もまた世界が過酷であることを体験しながら死んで行く。
こうした生き方に何か救いはあるだろうか。
アイルランドの古い歌だろうか。英国軍隊によって理不尽な理由で殺された息子--その息子の葬儀に老人が歌う歌が救いである。希望である。
死んだ男、流した血の上に麦は生え、やがて麦の穂は実り、風がゆする。
豊かな麦の穂をゆらす風は、この映画には登場しない。麦の穂の実りも登場しない。ただ、荒れた大地にへばりついて生きている草が、木が登場するだけだが、それを豊かな麦にかえるのは、流された若者の血しかない。そう告げるのだが、その断言のなかに、絶対にこの血をむだにしないという決意が潜んでいる。希望が潜んでいる。
この映画は悲しい映画である。悲しいけれど、悲しみが怒りに、怒りが力にかわることをひそかに願っている映画である。人間の「自然」は悲しみを怒りに、怒りを力にかわるはずだと、この映画は願っている。それが人間の「自然」だと。
また、自然が自然本来の姿を失ったのは(より過酷になってしまったのは)、そこに「侵入者」があったからだと、この映画は告げる。アイルランドの不孝はイギリスに原因があると告げる。それはイギリスがアイルランドから出ていけば、アイルランドは自然にかえることができるのだということでもある。
そのときまで、怒りの大地は怒りの大地のままである。侵略者が去ったときこそ、流された大地から麦が生え、そしてその穂をゆらす風も吹くのである。
老女が歌った歌は追悼歌、鎮魂歌であると同時に「祈り」でもある。