詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンドリュー・モーション「アンネ・フランクの家」

2006-11-21 14:08:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 アンドリュー・モーション「アンネ・フランクの家」(熊谷ユリヤ訳、「現代詩手帖」11月号)。

少女が深い悲しみと怒りの日々を生きたのは、まさに
この場所。あの短い人生の倍の年月を経た今でさえ、
この家を訪れて、狭い階段を上り、隠れ家入口の
本棚のからくりを確かめ、薄暗さを通り抜け
陽の当たる部屋へと歩いていくものは誰しも、

少女の秘密を再び暴くことになってしまう。耳を傾ける
行為さえ罪の意識になる--家の外では
西教会の鐘が繰り返し響き、あらゆる〈時〉が少女の
恐怖に向かって渦を巻き、鐘の音は一つ、またひとつと
監視の目が光った通りに消えていく--思い描くがいい

三年にわたる囁き、孤独、そして来る日もくる日も
ヨーロッパ地図の上に黄色いチョークで引き直される
連合軍の前線。少女が夢見た、ありふれた恋や
心踊る出来事は、写真の姿で生き残っている--
寝台の上の壁には家族の写真、

俳優たちの写真、そして、エリザベス女王
お気に入りファッションの写真。
一目見ようとして身を屈める者の目には、
少女の無念だけでなく
今なお息づく願いさえ見えてくる。

ぼくが願えば、容易に叶えられてしまう望みに似て、
それは、この家を抜け出し、埃っぽい並木道を
そぞろ歩きたいという願い。あるいは、沈黙の艀が
橋をすり抜けて、青の運河に船影を際立たせるのを
見つめることが出来るかもしれないという希望。

 具体的な肉体の動きが、遠い肉体、今、ここに存在しない肉体を引き寄せる。「狭い階段を上り、隠れ家入口の/本棚のからくりを確かめ、薄暗さを通り抜け/陽の当たる部屋へと歩いていく」のはアンドリュー・モーション自身であるけれど、それはアンネ・フランクそのものである。同じ道をたどること、同じ姿勢をとることで詩人はアンネ・フランクになる。
 1連目の「陽の当たる部屋へと歩いていくものは誰しも」と「少女の秘密を再び暴くことになってしまう」は意味的には連続したことばである。しかし、その連続に「1行のアキ」が存在する。
 この「1行アキ」は「5行5連」という詩の形式から偶然生まれたもののように見えるけれど、実は、そうではない。 アンドリュー・モーションがアンネ・フランクになる。その変化、飛躍のために必要な「1行アキ」なのである。
 アンネ・フランクと同じ姿勢で隠し部屋へ入るからといってだれでもがアンネ・フランクになるわけではないだろう。「観光客」のまま隠し部屋に入る人もいるだろう。ところが、アンドリュー・モーションがアンドリュー・モーションはアンネ・フランクになってしまう。なってしまうけれど、その「なる」という変化はことばでは言えない。ことばにならない変化がそこにはあって、そのことばにならないものが存在することを明確にするために「1行アキ」があるのである。
 ことばにできない劇的な変化があってこそ、「少女の秘密を再び暴くことになってしまう」ということばが落ち着く。胸に迫るものになる。
 「1行アキ」の飛躍ゆえに、私たちは、アンドリュー・モーションがアンネ・フランクの秘密を暴くのではなく、アンネ・フランク自身が秘密を暴くのだと知る。
 「再び」ということばが、この1行に挿入されているのは、そのためである。「再び」暴くことができるのは、かつて秘密を暴いたことがあるアンネ・フランク自身であって、アンドリュー・モーションではない。「日記」で「暴いた」ことがらが、今、アンネ・フランクの肉体によって、つまり、アンネ・フランクの耳になって、そして目になって、「少女の秘密」を暴く。こころの震えを。
 この詩のすばらしいところは、そうした「なる」という変化を明確に表現しているだけではなく、そこから再び詩人がアンドリュー・モーション自身に戻っているところである。今、起きていることがアンネ・フランクになりきってしまうことなら、その家を訪問した人がアンドリュー・モーションでなくてもいいことになってしまう。アンドリュー・モーション自身として、その家を、そしてアンネ・フランクの思いを、彼自身の肉体のなかにとりこまなければならない。そうしないと、家を出た瞬間、アンネ・フランクではなく、アンドリュー・モーションに戻ってしまうかもしれない。
 2連目の最後「思い描くがいい」は「思い描かなければならない」という意味である。
 狭い階段、本棚でできた隠し扉をくぐることで、無意識のまま(1行アキ、意識の空白をかかえて--無意識、というのはそのことを指す)、アンドリュー・モーションはアンネ・フランクになった。今、「思い描く」という行為、精神の力を動員して、アンドリュー・モーションは再びアンネ・フランクになろうとする。「思い描く」という行為をとおして、無意識の変化を意識できる変化、いつでも引き寄せることのできるものにしようと試みる。
 この試みが、もう一度、アンドリュー・モーションの肉体に働きかける。4連目。「一目見ようとして身を屈める者の目には」。身をかがめることによって、アンドリュー・モーションは、そこにアンネ・フランクがいるかのように、そこにいるアンネ・フランクに近付くのである。
 人が人に近付いて感じるもの、遠く離れているときには感じることができないもの--そのひとつに「息づかい」がある。「今なお息づく願い」のなかに入り込んだ「息づく」は単なる比喩ではない。肉体かつかみとってきた真実である。だから目では見えないはずの「願い」すら、「見えてくる」のである。「息」によって、そのときの「空気」そのものが共有される。アンネ・フランクが吸った「空気」、それがアンドリュー・モーションの肺にも入る。肺を通り、血管を通り、体中を駆けめぐる。そのとき「願い」が「見えてくる」。これは比喩ではなく、肉体の実感なのである。五感でとらえるものは、他の五感に共有される。それが肉体の力である。

 肉体の追体験、精神での「思い描き」、さらにもう一度肉体そのもので接近することによって、アンドリュー・モーションは、1行目の「深い悲しみと怒り」だけではなく、そのときの「空気」、つまり、アムステルダムの街と時代を呼吸し、出現させる。


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