坂多瑩子『スプーンと塩壺』(詩学社)(2006年11月20日発行)。
坂多の作品には少し童話のような雰囲気がある。なつかしいけれど、ちょっと不思議。現実にみかけるものを描きながら、現実にはありえない世界が広がる。たとえば「ヤギ」。
こんなことは現代の街ではありえない。ありえないけれ、これに似たことならしばしば体験する。したいこと、しなければならないことがあるのに、何か(誰か)に邪魔されて、それもどんな具合に邪魔なのかうまく説明できないために、なんとなくずるずるとひっぱられてしまうようなことが。そういう経験がどこかにあるから、この「ヤギ」が気にかかる。「ヤギ」は「ヤギ」と書かれているけれど「ヤギ」ではないかもしれない。では、何? 「ヤギ」ではないとしたら、なぜ「ヤギ」と書く?
坂多は説明できないと思う。その説明できない部分に、坂多の「思想」があり、「詩」がある。
「ヤギ」ではないのに「ヤギ」、という部分を、「私」ではないけれど「私」と読み替えてみるとどうだろうか。
スーパーの袋をかかえて帰ってきた。すぐにしてなければならないことかあるのに、アパートのなかへ入りたがらない「私」がいる。アパートの前まできたら、それに気がつく、ということはないだろうか。アパートのなかに入りたがらない「私」を何と呼べばいいのだろうか。坂多は、ふいに、それを「ヤギ」と呼んでみたのだと思う。記憶のどこかに、ヤギのせわをして苦労した思い出があるかもしれない。「おまえはヤギみたいにがんこだねえ」と家族に言われた記憶もあるかもしれない。……ということは、すべて私の想像だが。(つまり、私の生活、体験と重なるから、そんなふうに想像するのだが)。
もし、「ヤギ」が「わたし」のことばにならない、あるいはことばにしたくない「わたし」の一面だとしたら……。
私は、「ヤギ」の前に置かれた作品、詩集の冒頭の「歯車」を思い出してしまう。読み返してしまう。母を埋葬したあと、母が読んでくれた昔話を思い出す。昔話の冒頭が、最終連の3行で繰り返されている。
「ふたりのむすめ」は矛盾している。矛盾しているのに「わたし」である。矛盾しているからこそ「わたし」かもしれない。何か見えないものがふたりを結びつけて「わたし」にしている。そして結びつけているものが見えるのは「わたし」にだけなのである。他人には見えない。つまり、他人にわかる形で説明できない具合に(他人からは「ひとりのむすめ」にしかみえないでしょ?)、「ふたりむむすめ」を「わたし」は結びつけて生きている。「ふたりのむすめ」を実感しながら生きている。この「ふたりのむすめ」が長い間「わたし」のなかでせめぎあって、たとえば一方が「ヤギ」にかわってしまう、ということもあるのだ。
「歯車」の最終連をちょっと書き換えてみると、そのことがわかる。
アパートの前で出会った「ヤギ」は「かわいくはたらきもの」の「私」ではない、もうひとりの「私」、遠い遠い(失礼かな?)「むすめ」ではないだろうか。
人にはいつでも見えるものと見えないものがある。それは人間の内部で深く絡み合い、結びついている。そして、その絡み合い、結びつきが「ひとり」の人間をつくっている。そういうことを坂多は書こうとしているのではないだろうか。
「一日」は、そうしたことを「童話」にしないで、つまりどちらかというと、現実しかみない人に向けて書かれた作品のように思える。
私たちは確かに「見えているものが見えなくなり」という体験をする。それは「かわいくはたらきもの」ではない人間、「そのはんたい」の人間が動き始めたからかな? と、考え始めるとちょっとややこしくなるが、そういうこみいったことはどうでもよくて、ただ確かに「見えているものが見えなくなり」ということがあると実感さえすればいい。そのとき、そうであるなら「見えないものも/見える」と言ってしまうときの「こころ」もわかるはずである。
「ヤギ」はアパートの前になんかいない。そんなものは見えない。だが「見える」と言ってしまうこころは、「見えているものが見えなくな」るときのこころと、そんなにかわりはないのだ。同じひとつのこころとして「わたし」のなかにある。
坂多の作品で、もうひとつ忘れられないものがある。「セミ」。セミの死骸のなかでウジ虫が動いている。そのウジ虫をアリが引きずり出していく。そういう描写をしたあとの3行。
世界には、この3行のように「否定形」でしか伝えられないことがある。何が言いたいのか。誰かがどんなに説明しても、「そんなことを言っているのではありません」としか言えないものが「私」のなかには存在する。「そんなことを言っているのではありません」と主張するかわりに、坂多は詩を書いているのだと思う。
「歯車」から引用した3行を、もう一度、書き換えてみよう。その3行をつかって、ことばを少し動かしてみよう。
では、何を言っているのか。わからない。わからないから、それを探してことばを動かしている。詩を書いている。そうしたわからないものをもとめて動いていく部分に、坂多の「思想」と「詩」がある。
同人誌で断片的に読んでいたときは、坂多の詩は何か気にかかる、気にかかるけれどうまくその魅力をつかみとれない感じがした。今も、坂多の魅力をつかみきれているとはいえないけれど、まとめて作品を読んで、ああ、いい詩人だと思う。ああ、いい詩だというよりも、ああ、いい詩人だという思いが沸き上がってくる詩集である。
坂多の作品には少し童話のような雰囲気がある。なつかしいけれど、ちょっと不思議。現実にみかけるものを描きながら、現実にはありえない世界が広がる。たとえば「ヤギ」。
スーパーの袋をかかえて
帰ってきたら
アパートの前に
やせこけたヤギがいる
いそいで
部屋に戻らなければならないのに
うす目をあけて
私を見ている
パンをやる
食べない
牛乳をやる
紙をやる
無理に食べさせようとすると
悲鳴をあげる
ヤギが
どうしてこんなところにいて
私を困らせるのだ
ヤギはますますやせていく
はやく
部屋に戻らなければならないのに
アパートの前で
夜になっている
こんなことは現代の街ではありえない。ありえないけれ、これに似たことならしばしば体験する。したいこと、しなければならないことがあるのに、何か(誰か)に邪魔されて、それもどんな具合に邪魔なのかうまく説明できないために、なんとなくずるずるとひっぱられてしまうようなことが。そういう経験がどこかにあるから、この「ヤギ」が気にかかる。「ヤギ」は「ヤギ」と書かれているけれど「ヤギ」ではないかもしれない。では、何? 「ヤギ」ではないとしたら、なぜ「ヤギ」と書く?
坂多は説明できないと思う。その説明できない部分に、坂多の「思想」があり、「詩」がある。
「ヤギ」ではないのに「ヤギ」、という部分を、「私」ではないけれど「私」と読み替えてみるとどうだろうか。
スーパーの袋をかかえて帰ってきた。すぐにしてなければならないことかあるのに、アパートのなかへ入りたがらない「私」がいる。アパートの前まできたら、それに気がつく、ということはないだろうか。アパートのなかに入りたがらない「私」を何と呼べばいいのだろうか。坂多は、ふいに、それを「ヤギ」と呼んでみたのだと思う。記憶のどこかに、ヤギのせわをして苦労した思い出があるかもしれない。「おまえはヤギみたいにがんこだねえ」と家族に言われた記憶もあるかもしれない。……ということは、すべて私の想像だが。(つまり、私の生活、体験と重なるから、そんなふうに想像するのだが)。
もし、「ヤギ」が「わたし」のことばにならない、あるいはことばにしたくない「わたし」の一面だとしたら……。
私は、「ヤギ」の前に置かれた作品、詩集の冒頭の「歯車」を思い出してしまう。読み返してしまう。母を埋葬したあと、母が読んでくれた昔話を思い出す。昔話の冒頭が、最終連の3行で繰り返されている。
わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたいでした
「ふたりのむすめ」は矛盾している。矛盾しているのに「わたし」である。矛盾しているからこそ「わたし」かもしれない。何か見えないものがふたりを結びつけて「わたし」にしている。そして結びつけているものが見えるのは「わたし」にだけなのである。他人には見えない。つまり、他人にわかる形で説明できない具合に(他人からは「ひとりのむすめ」にしかみえないでしょ?)、「ふたりむむすめ」を「わたし」は結びつけて生きている。「ふたりのむすめ」を実感しながら生きている。この「ふたりのむすめ」が長い間「わたし」のなかでせめぎあって、たとえば一方が「ヤギ」にかわってしまう、ということもあるのだ。
「歯車」の最終連をちょっと書き換えてみると、そのことがわかる。
わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたい、「ヤギのようないきもの」でした
アパートの前で出会った「ヤギ」は「かわいくはたらきもの」の「私」ではない、もうひとりの「私」、遠い遠い(失礼かな?)「むすめ」ではないだろうか。
人にはいつでも見えるものと見えないものがある。それは人間の内部で深く絡み合い、結びついている。そして、その絡み合い、結びつきが「ひとり」の人間をつくっている。そういうことを坂多は書こうとしているのではないだろうか。
「一日」は、そうしたことを「童話」にしないで、つまりどちらかというと、現実しかみない人に向けて書かれた作品のように思える。
何かの拍子に
終わらない一日が始まると
夜がきて そのまま
朝になっても
私は同じ場所にすわっている
それでも
ほんの少しずつずれ落ちながら
朝がきて
夜になるものだから
私のからだはゆがみはじめ
私のこころはゆがみはじめ
ある日 とうとう
見えないものも
見える
なんて言ってしまうのだ
台所の暗がりで
もういない大伯母が白瓜をつけているとか
それから
素知らぬ顔をして 朝
起きると何も起きなかったかのように 昼の
なかに立っている
といってもそう単純でもない
何かの拍子に
スプーンとか塩壺とか
見えているものが見えなくなり
裏返しの一日が始まり
台所の暗がりに探しにいく
私たちは確かに「見えているものが見えなくなり」という体験をする。それは「かわいくはたらきもの」ではない人間、「そのはんたい」の人間が動き始めたからかな? と、考え始めるとちょっとややこしくなるが、そういうこみいったことはどうでもよくて、ただ確かに「見えているものが見えなくなり」ということがあると実感さえすればいい。そのとき、そうであるなら「見えないものも/見える」と言ってしまうときの「こころ」もわかるはずである。
「ヤギ」はアパートの前になんかいない。そんなものは見えない。だが「見える」と言ってしまうこころは、「見えているものが見えなくな」るときのこころと、そんなにかわりはないのだ。同じひとつのこころとして「わたし」のなかにある。
坂多の作品で、もうひとつ忘れられないものがある。「セミ」。セミの死骸のなかでウジ虫が動いている。そのウジ虫をアリが引きずり出していく。そういう描写をしたあとの3行。
いのちってそんなに大切なものではありません
と
そんなことを言っているのではありません
世界には、この3行のように「否定形」でしか伝えられないことがある。何が言いたいのか。誰かがどんなに説明しても、「そんなことを言っているのではありません」としか言えないものが「私」のなかには存在する。「そんなことを言っているのではありません」と主張するかわりに、坂多は詩を書いているのだと思う。
「歯車」から引用した3行を、もう一度、書き換えてみよう。その3行をつかって、ことばを少し動かしてみよう。
わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたいでした
かわいくはたらきもののむすめが本当のわたしです
いいえ、そのはんたいが本当のわたしです
と
そんなことを言っているのではありません
では、何を言っているのか。わからない。わからないから、それを探してことばを動かしている。詩を書いている。そうしたわからないものをもとめて動いていく部分に、坂多の「思想」と「詩」がある。
同人誌で断片的に読んでいたときは、坂多の詩は何か気にかかる、気にかかるけれどうまくその魅力をつかみとれない感じがした。今も、坂多の魅力をつかみきれているとはいえないけれど、まとめて作品を読んで、ああ、いい詩人だと思う。ああ、いい詩だというよりも、ああ、いい詩人だという思いが沸き上がってくる詩集である。