監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ
女性は(あるいは母親は)何でも受け入れる。と、書いてしまうと誤解を招くだろうか。しかし少なくともペドロ・アルモドバル監督はそう考えているように思える。いや、そう感じているように思える。
「帰郷」というタイトルが暗示しているのは、そして、故郷もまた何でも受け入れる母親であるということである。
故郷でペネロペ・クルスが体験したこと。父親に強姦されて妊娠したということ。それに母親が気がつかなかったということ。ペネロペ・クルスの悲しみと怒りと、愛してほしいという願いが、このときから入り交じる。単純に、どれかひとつの感情になることができない。そして、深い孤独のなかにいる。
そして、その母親はといえば、夫に娘を強姦されただけではなく、隣の女とも浮気された。その現場を目撃し、母は山小屋に火をつけて二人を殺してしまった。二人を殺しながら、身を隠すことで、死んだのは自分だという「架空の話」のなかへ消えてゆく。(ペネロペ・クルスはこの「架空の話」を事実と勘違いしている。故郷を離れてしまったために、そこで何が起きているのか知らない。)母もまた、そうして孤独のなかに生きている。
映画を見ていると、故郷の人々は、そういう「事件」をすべて知っているということがわかる。「孤独」にも気がついていることがわかる。知っているけれど、それぞれが「架空の話」を生きていくなら、それはそれで受け入れる。警察なんかにつきだしたりはしない。現実を受け入れ、何ができるかを自ら選んで生きてゆくことの方が「正義」よりももっと正しいと信じているからだ。人が何をしようと、そのことについて人が苦しんでいるなら、その苦しみに寄り添い、いっしょに生きることの方が、いのちにとっては大切だということを知っている。
「孤独」のままでいたい、我慢していたいなら、我慢できるだけ我慢していないさい。でも、つらくなったらいつでも帰っておいで。故郷はいつでも抱き締めてあげるよ、というのだ。
母も同じである。娘が帰ってくればいつでも抱き締めたいのだ。
そして、この映画のすばらしいところは、この「母」というのは、「母-娘」という関係での「母」にかぎらないところだ。女はすべて「母」である。娘であっても、母の「母」になれるのだ。なってしまうのだ。母親がペネロペ・クルスに「許しておくれ」というとき、ペネロペ・クルスは娘ではなく、「母」として母を受け入れる。
他の女を受け入れるときも同じである。友人として受け入れるのではない。「母」として受け入れるのだ。「世界で一番大切なものはおまえだよ、おまえが生きていることが一番うれしいよ」という感じで受け入れる。憎んでいても、その憎しみを振り払って、「愛しているよ」と受け入れる。
母とは年代ではない。時間のつながりではない。時間をかきまぜてしまう宇宙なのだ。いのちがうごめく宇宙なのだ。
そんなふうに何でもかんでも受け入れていけば「矛盾」が起きる。混沌としてしまう。それでいい、とペドロ・ナルモドバルは言う。宇宙は(そして故郷は、あるいは「母」は)巨大だ。ささいな矛盾を正すために無理などしない。むしろ矛盾を楽しむ。何かと何かがぶつかるたびに、そこから何か新しいものが生まれてくる。そしてその新しいものとは、なぜだかわからないが古いもの、なつかしいもの、温かな涙だったりもする。その瞬間がうれしい。そのうれしさを「よし」とする。
*
抽象的なことを書きすぎたかもしれない。
今書いた抽象的なことを抜きにして、映画の細部が非常におもしろい。アルモドバルの細部へのこだわりがすばらしい。
ペネロペ・クルスが夫の死体をかたづけるシーン。たとえば、ペーパータオルにじわーっと血が浮き上がってくるシーン。夫の死体を埋めた近くの木に墓銘碑がわりに文字を刻むシーン。自転車のハンドルの匂いをかいでみるシーン。文字にしてみると、なんのことかわからないようなシーンが、いきいきとしている。肉体存在そのものとして迫ってくる。何の関係もないようなものが入り混じりながら女の体をつくっている。
象徴的なのが、ペネロペ・クルスが夫の遺体を処理しているときに隣のレストランオーナーが尋ねてくるシーン。ペネロペの首筋に血がついている。
「どうしたの?」
「何でもないわ、女だから何でもあるのよ」
ああ、ほんとうに何でもあるのだ。何があってもいいのだ。すべてを受け入れ、受け入れた瞬間に「母」になる。「故郷」になる。
これはアルモドバルの「帰郷」でもある。ふるさと讃歌、母親讃歌、女性讃歌である。
女性は(あるいは母親は)何でも受け入れる。と、書いてしまうと誤解を招くだろうか。しかし少なくともペドロ・アルモドバル監督はそう考えているように思える。いや、そう感じているように思える。
「帰郷」というタイトルが暗示しているのは、そして、故郷もまた何でも受け入れる母親であるということである。
故郷でペネロペ・クルスが体験したこと。父親に強姦されて妊娠したということ。それに母親が気がつかなかったということ。ペネロペ・クルスの悲しみと怒りと、愛してほしいという願いが、このときから入り交じる。単純に、どれかひとつの感情になることができない。そして、深い孤独のなかにいる。
そして、その母親はといえば、夫に娘を強姦されただけではなく、隣の女とも浮気された。その現場を目撃し、母は山小屋に火をつけて二人を殺してしまった。二人を殺しながら、身を隠すことで、死んだのは自分だという「架空の話」のなかへ消えてゆく。(ペネロペ・クルスはこの「架空の話」を事実と勘違いしている。故郷を離れてしまったために、そこで何が起きているのか知らない。)母もまた、そうして孤独のなかに生きている。
映画を見ていると、故郷の人々は、そういう「事件」をすべて知っているということがわかる。「孤独」にも気がついていることがわかる。知っているけれど、それぞれが「架空の話」を生きていくなら、それはそれで受け入れる。警察なんかにつきだしたりはしない。現実を受け入れ、何ができるかを自ら選んで生きてゆくことの方が「正義」よりももっと正しいと信じているからだ。人が何をしようと、そのことについて人が苦しんでいるなら、その苦しみに寄り添い、いっしょに生きることの方が、いのちにとっては大切だということを知っている。
「孤独」のままでいたい、我慢していたいなら、我慢できるだけ我慢していないさい。でも、つらくなったらいつでも帰っておいで。故郷はいつでも抱き締めてあげるよ、というのだ。
母も同じである。娘が帰ってくればいつでも抱き締めたいのだ。
そして、この映画のすばらしいところは、この「母」というのは、「母-娘」という関係での「母」にかぎらないところだ。女はすべて「母」である。娘であっても、母の「母」になれるのだ。なってしまうのだ。母親がペネロペ・クルスに「許しておくれ」というとき、ペネロペ・クルスは娘ではなく、「母」として母を受け入れる。
他の女を受け入れるときも同じである。友人として受け入れるのではない。「母」として受け入れるのだ。「世界で一番大切なものはおまえだよ、おまえが生きていることが一番うれしいよ」という感じで受け入れる。憎んでいても、その憎しみを振り払って、「愛しているよ」と受け入れる。
母とは年代ではない。時間のつながりではない。時間をかきまぜてしまう宇宙なのだ。いのちがうごめく宇宙なのだ。
そんなふうに何でもかんでも受け入れていけば「矛盾」が起きる。混沌としてしまう。それでいい、とペドロ・ナルモドバルは言う。宇宙は(そして故郷は、あるいは「母」は)巨大だ。ささいな矛盾を正すために無理などしない。むしろ矛盾を楽しむ。何かと何かがぶつかるたびに、そこから何か新しいものが生まれてくる。そしてその新しいものとは、なぜだかわからないが古いもの、なつかしいもの、温かな涙だったりもする。その瞬間がうれしい。そのうれしさを「よし」とする。
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抽象的なことを書きすぎたかもしれない。
今書いた抽象的なことを抜きにして、映画の細部が非常におもしろい。アルモドバルの細部へのこだわりがすばらしい。
ペネロペ・クルスが夫の死体をかたづけるシーン。たとえば、ペーパータオルにじわーっと血が浮き上がってくるシーン。夫の死体を埋めた近くの木に墓銘碑がわりに文字を刻むシーン。自転車のハンドルの匂いをかいでみるシーン。文字にしてみると、なんのことかわからないようなシーンが、いきいきとしている。肉体存在そのものとして迫ってくる。何の関係もないようなものが入り混じりながら女の体をつくっている。
象徴的なのが、ペネロペ・クルスが夫の遺体を処理しているときに隣のレストランオーナーが尋ねてくるシーン。ペネロペの首筋に血がついている。
「どうしたの?」
「何でもないわ、女だから何でもあるのよ」
ああ、ほんとうに何でもあるのだ。何があってもいいのだ。すべてを受け入れ、受け入れた瞬間に「母」になる。「故郷」になる。
これはアルモドバルの「帰郷」でもある。ふるさと讃歌、母親讃歌、女性讃歌である。