詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷典子『自転車紀行』(1)

2007-07-23 12:37:04 | 詩集
 大谷典子『自転車紀行』(編集工房ノア、2007年07月16日発行)
 どの詩もおもしろい。どれを取り上げればいいのか悩んでしまう。とりあえず「のびる足指」。

湿気はくどく感じたので
今日は
除湿日です

しつこく電話をしてくる人も
請求書通りより二万円少なく振り込んで殺害されかけた人も
からっとしてください

信仰の神秘
主の死を思い復活をたたえよう
主が来られるまで
うたっています
女子学院
修道院
カトリック教会
男子学院と
続きます



「もみじ」のもみじ焼きが
脳内を通過しました

勝手に時間は過ぎたのではないのです
足指は以前から榎茸

 4連目がとてもいい。教会の近く、女子学院や男子学院などが並んだ通りをすぎる。そして、ふっと視界に教会なんかとはまったく関係ないものが飛び込んでくる。「もみじ焼き」という店の看板(?)の「もみじ」。なぜ? そこにあったから? たしかにそこに存在しなければ、それは目に見えることはない。視界に飛び込み、さらに「脳内」にまでやってくるはずがない。しかし、そこにあればかならず目に入り、「脳内」にまでやってくるかというと、そうとは限らない。いま、ここに存在しながら、視界に入って来ない、物理的に視界に入っていても、ことばにならないもの、というものがたくさんある。では、なぜ、「もみじ焼き」が? そんなことは、わからない。わからないから、大谷はそのことについては書かない。ただ、大胆に飛躍する。

勝手に時間は過ぎたのではないのです

 「もみじ焼き」の「もみじ」が「脳内」を通過する。その時間。それは「勝手に」「過ぎたのではない」。人間のからだのなかの時間は、何がしかの「理由」にそって流れている。動いている。その「理由」はわからないけれど、こそにはかならず厳密な「理由」がある。そのことを大谷は直感している。そして、その厳密な「理由」は厳密でありすぎるので(つまり、他人にはうつく伝えられないたぐいのもの、大谷だけに直接的にわかることがらなので)、次のように言うしかない。

勝手に時間は過ぎたのではないのです
足指は以前から榎茸

 足指が榎茸? 以前から? 以前からって、いつから? そんなことは、読者の知ったことではないだろう。大谷はそう答えるだろう。大谷の足指が榎茸なのは、その指が榎茸になるだけの時間が大谷のからだのなかで過ぎたということである。勝手にではなく、大谷の、あらゆるものと相談(?)しながら、大谷の了解(?)を得て、そうなったのである。大谷は何もかもになるのである。それは、「大谷」という人間は「何もかもを含んだ」存在なのである、というのに等しい。
 「変色する淀川」に次の行がある。

ずっとずっと考えていました考えなければいけなかったんです
感情だけではありません
本能も頭も心も理屈も何もかもすべて含みます
軽率ではありません

 足指が榎茸になるのは軽率だから? そんなことはない。そこにはすべてが含まれている。
 「すべてを含み」、大谷のことばは動き、詩に「なる」。大谷の足指が「すべてを含み」榎茸になるとき、大谷のことばは「すべてを含み」、詩に「なる」。
 とても楽しい詩集だ。

コメント
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