詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「発酵する日」

2007-07-09 12:54:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 田島安江「発酵する日」(something 5、2007年06月25日発行)

真昼の台所で
味噌づくりをはじめる
ゆでた大豆をつぶして麹を混ぜ
塩をぱらぱらとふり
さっくりと混ぜ合わせていく
麹も塩も
知り合ったばかりの男女のように
そっけなく冷やか

 「知り合ったばかりの男女のように」がいい。ここから当然大豆と麹(塩)はとけあってゆく。
 その2連目がすばらしい。

夜ふけて
麹たちは深呼吸しながら
ふわふわはカラダを揺らしている
聞こえないほどの小さな声で
おしゃべりをしている
それは大豆と塩との睦まじい戯言で
深い夜のしじまのなかで
麹も塩も変わろうとしているらしい
大豆も塩も溶けてなれあい
自分をなくしていく
ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む
麹たちのため息が満ちて
味噌に変わる瞬間を待ちわびている
跡形もなく消え去る
塩の心を知っているらしい

 「深呼吸」「カラダ」「小さな声」「おしゃべり」「睦まじい戯言」「なれあい」。全部セックスである。セックスを想像させるように書いている。しかし、むりがない。とくに、

ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む

 が絶妙である。
 味噌をつくったことがあるひとなら知っていると思うが、実際に麹が発酵するときのざわめきのようなものが布をかけるとふっと静かになる。布は埃をさけるためなのか、保温のためなのか知らないが、その瞬間にやってくる沈黙は、田島の詩を読んだあとでなら、たしかにエクスタシーの予兆なのだ、自己を超越して何かにかわるための予兆の沈黙なのだとわかる。
 3連目もすばらしい。

朝の台所には
みめ汁のために用意した
葱の生くさい匂いが充満する
葱坊主をつむとき
ぽんとかすかに乾いた音がして
手にぬらりとまとわりつく
あの人への粘着質の殺意と欲望
発酵するふたりのあした
ちいさなわだかまりが
長い糸を引きながら落下する

 最後の1行は、私の「好み」にあわないので省略した。「あの人への粘着質の殺意と欲望」の「粘着質」も私にはうるさく感じる。ない方がすっきりする。2連目の美しさがきわだつ。「粘着質」以降、ことばが少し「頭」に傾いている。「ぽんとかすかに乾いた音がして/手にぬらりとまとわりつく」という、葱坊主をつんだことのある人にしかわからないような、やわらかな感じ、肉体に眠る記憶を呼び覚ます美しさが、「頭」で書かれた「粘着質」以降、消えて行くのが残念である。
 「ぱらぱら」「さっくり」「そっけなく」「冷やか」(1連目)、「ふわふわ」「ふわっと」(2連目)、「ぽんと」(3連目)。そうやって積み重ねてきたことばが「粘着質」によって別なものになってしまう。異次元になってしまう。それがとても残念。
 とてもいい詩なので、あえて最後に気に食わない部分を指摘しておく。



 「粘着質」と関係があるのかどうかわからないが、もう一か所、実は気にかかった部分がある。1連目「知り合ったばかりの男女のように」。あ、女性も「男女」というふうに「男」を先にして二人の関係を思い描くのかな? それが疑問だった。味噌のできる過程は、ゆっくり大豆、麹、塩のセックスにときほぐされているのに、二人の出会いは「男女」と「流通していることば」そのままである。これでいいのかな? もっと違った書き方があったのではないのかな?
 
「女性詩」という呼び方がある。
 私は実は、「知り合ったばかりの男女のように」というような行に「女性」を感じる。「男女」という部分に「女性」を感じる。それは「男性」と対比することで存在する人間という意味である。夜更けの麹、大豆、塩のむつごと--それを聞き取る耳には「女性」ではなく、人間を感じる。いのちを感じる。ところが「男女」という表現には「いのち」を感じない--こう書けば、私のいいたいことが伝わるだろうか。
 「粘着質」もおなじである。

 私は「女性詩」が嫌いである。



 おなじ号の「猫の気分」の、

猫がのこした空間に苦い水がしみる

 この行も美しい。この行も「頭」で書かれた行として分類することができる。ただし、「男女」のように「男」の「頭」に汚染されていない。「男」「女」という制度とは無縁の「頭」である。
 こういう行は大好きだ。

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入沢康夫と「誤読」(メモ52)

2007-07-09 11:44:09 | 詩集
 入沢康夫『詩の構造についての覚書』(思潮社、2002年10月20日発行、増補改訂新版)。
 入沢は、ことばを「作者」(発話者)と「読者」の両側から見ている。

 言葉というものは--ここで言葉というのは、一個もしくは一個以上の単語の連なりを指すが--いかなる言葉でも、それが発せられる(口から、あるいは文字として)ときには、発話者との《関係において》発せられているのであり、それが受けとられる(耳で、あるいは目で、そして結局は脳で)ときには、受け取り手との《関係において》受けとられているのだ。あたりまえのことではないか? そう、あたりまえのことである。だが、このあたりまえのことに、いましばらくかかずらわっておかねばならないとぼくは思う。

 ことばには「発話者」の「関係」が含まれる。しかし、「読者」はそのことばを「発話者」の関係のみでとらえるのではない。「読者」自身との関係でとらえなおす。
 ここに「ずれ」が生じる。
 この「ずれ」を「誤読」と言ってしまうと簡単である。ただし、その「誤読」をどう評価するか。「誤読」だから間違っている、というのが一般的な考え方のようである。入沢は簡単にはそうした考えには傾いていない。
 「誤読」というとき、何を「誤読」したことになるのだろうか。発話者の意図? 発話者の感情?
 発話者の意図を「誤読」することが「誤読」とはかぎらない場合がある。

 「詩」から少し(かなり?)離れる。きょう07月09日の朝日新聞におもしろい記事が載っている。赤城農相の事務所費をめぐって野党と論戦したときのものである。赤城農相は彼の両親の家に事務所をかまえ、架空の経費を計上したという疑惑をもたれている。

 「光熱費は月に 800円ですよ。 800円で辞任を要求するんですか」

 安部首相は、そう弁護している。これに対して、朝日新聞の記者は「事実」をあげて批判している。

 首相は用意した紙に目を落としながら、野党党首たちに反論した。「月 800円」は過去10年で最小の光熱費だった05年の年9660円を月割りしたもの。最多の99年なら、年約 132万円になる。

 首相は赤城農相の「意図」を正確に読み取り「月 800円」という数字で野党に反論したもの。その論理を逆手にとって、朝日新聞は、では99年の場合は? と紙上で質問している。
 --しかし、こんな反論でいいのだろうか? 朝日新聞の反論の仕方にしたがえば、99年は正確であり、05年は間違っているということになるが、こういう反論の仕方では、たぶん「事務所の活動状態が年によって違っているから差が出て当然」という赤城農相(安部首相)の「意図」にそった結論が導き出されてしまう。発話者と「ことば」との「関係」に飲み込まれてしまう。これでは「反論」にならない。
 光熱費が月に 800円? そんなことがありうるのか。電灯をつけようがつけまいが、月々の基本料金というものがあるはずである。 800円しかかからないということ自体、その「事務所」が架空のものであった証拠だろう。「ことば」を発話者の関係する「状況」を点検するようにして探らなければほんとうのことはわからない。
 首相の弁護は意図的な「誤読」である。赤城農相の「意図」にそった、意図的なものである。
 現実の日常、電気代を月々いくら払うか、払っているかという「庶民」の日常、そこで動いていることば、月々たとえば 1万5000円払っていることとの差から月 800円という「状況」を洗い直す--そこから浮かび上がる事実をつきつける、という反論でなければ、ほんとうの反論にはならないだろう。

 「誤読」されることを狙って発言されることばもある。「月 800円」は「誤読」を誘導する「論理的」な読み方である。

 「月 800円で辞任要求」するのではない。「月 800円だから」辞任要求するのである。嘘をついているから辞任要求するのである。



 文学(詩)においても、こういう「誤読」を誘うことばはある。特に入沢の作品には、そういうものがある。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」がそうしたものだと思う。あたかも「エスキス」以前に、いくつかの草稿があったかのように装った作品群。それ以前に草稿があったと「誤読」させる構造。
 --文学は政治のことばではないから、こういうことは罪にはならない。「誤読」に誘導されるのも楽しい。「誤読」に誘導されずに、そこからほかの読み方を探すのも楽しい。
 作者に作者とことばの関係があるなら、読者には読者とことばの関係がある。読者自身の関係を大切にして、作者の意図とは違った方向へ遊んでみる。そこに思いもかけなかったもの--読者自身の「本心」というものが立ち上がってくるときがある。そのとき、読者は作者の「意図」を「誤読」したのだけれど、同時に読者自身の「意図」を発見し、読者にとっての真実に近づく。そういうことがある。
 入沢は、そういう「誤読」を願っている。
 入沢自身のことばのなかに、誰かほかの人が書いたことばが紛れ込んでいる部分を読むと、強くそう感じる。
 「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」。それは宮沢賢治を「誤読」し、「誤読」のなかで語りたい入沢の本心をあぶりだしている。ことばはどんなふうに読まれたがっているか--そういう「夢」が書かれている。ことばがどんなふうに読まれたがっているかということを浮き彫りにするために、入沢は複数の作品を書いて「誤読」という世界へ読者を誘っているのである。


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大橋政人「カボチャのツルの一〇センチ」

2007-07-09 00:25:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 大橋政人「カボチャのツルの一〇センチ」(「ガーネット」52、2007年07月01日発行)
 大橋のことばは、この詩に書いてあるカボチャのツルのように動く。

今日、巻き尺ではかったら
一メートルだったツルが
次の日、一メートル一〇センチになっていた
先っぽのその一〇センチの部分が
伸びたということになるのだろうか
ツルには
新しく伸びる部分と
伸ばすための母体の二つの部分があるのだろうか

 大橋のことばは、新しく伸びる部分(先へ先へと進む部分)と、伸ばすための母体(先へ先へと進むことばを支える部分)の二つの部分があるのだろうか。
 普通はこんなふうには考えない。
 ただ単純に先端が伸びただけ、一〇センチ短い部分はきのうのツルの長さ。でも、確かにその継ぎ目はないし、本当に先端が伸びたのか、それとも先端はそのままで「母体」が伸びたのかはわからない。
 ことばもおなじである。
 ことばが先へ進んだのか。それとも先端にあることばはおなじままで、いままで書かれていなかった方向、過去(?)の方向へことばが伸びていったのか。
 大橋の詩を読んでいると、ことばは先端を伸ばすのではなく、先端をそのままにして、過去(?)の方へことばが伸びていくのだ、といいたい気持ちになる。ことばが、過去の方へ伸びることによって、現在が、その伸びにしたがって深くなる。味わいが深くなる。そういいたい気持ちになってくる。
 「現在」というのは、単純に「現在」としてあるのではない。それを支える「過去」がある。しかもそれは後ろとか背後とかにあるのではなく、「現在」の広がりそのものとして存在する。
 カボチャのツルに先端と母体の区別がないよう、現在にも、その先っぽと母体の区別はない。ただつながっている。そのつながりをつながりのまま、毎日毎日、「巻き尺ではか」るように、ことばではかる--それが大橋の詩なのだと思った。


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