田島安江「発酵する日」(something 5、2007年06月25日発行)
「知り合ったばかりの男女のように」がいい。ここから当然大豆と麹(塩)はとけあってゆく。
その2連目がすばらしい。
「深呼吸」「カラダ」「小さな声」「おしゃべり」「睦まじい戯言」「なれあい」。全部セックスである。セックスを想像させるように書いている。しかし、むりがない。とくに、
が絶妙である。
味噌をつくったことがあるひとなら知っていると思うが、実際に麹が発酵するときのざわめきのようなものが布をかけるとふっと静かになる。布は埃をさけるためなのか、保温のためなのか知らないが、その瞬間にやってくる沈黙は、田島の詩を読んだあとでなら、たしかにエクスタシーの予兆なのだ、自己を超越して何かにかわるための予兆の沈黙なのだとわかる。
3連目もすばらしい。
最後の1行は、私の「好み」にあわないので省略した。「あの人への粘着質の殺意と欲望」の「粘着質」も私にはうるさく感じる。ない方がすっきりする。2連目の美しさがきわだつ。「粘着質」以降、ことばが少し「頭」に傾いている。「ぽんとかすかに乾いた音がして/手にぬらりとまとわりつく」という、葱坊主をつんだことのある人にしかわからないような、やわらかな感じ、肉体に眠る記憶を呼び覚ます美しさが、「頭」で書かれた「粘着質」以降、消えて行くのが残念である。
「ぱらぱら」「さっくり」「そっけなく」「冷やか」(1連目)、「ふわふわ」「ふわっと」(2連目)、「ぽんと」(3連目)。そうやって積み重ねてきたことばが「粘着質」によって別なものになってしまう。異次元になってしまう。それがとても残念。
とてもいい詩なので、あえて最後に気に食わない部分を指摘しておく。
*
「粘着質」と関係があるのかどうかわからないが、もう一か所、実は気にかかった部分がある。1連目「知り合ったばかりの男女のように」。あ、女性も「男女」というふうに「男」を先にして二人の関係を思い描くのかな? それが疑問だった。味噌のできる過程は、ゆっくり大豆、麹、塩のセックスにときほぐされているのに、二人の出会いは「男女」と「流通していることば」そのままである。これでいいのかな? もっと違った書き方があったのではないのかな?
「女性詩」という呼び方がある。
私は実は、「知り合ったばかりの男女のように」というような行に「女性」を感じる。「男女」という部分に「女性」を感じる。それは「男性」と対比することで存在する人間という意味である。夜更けの麹、大豆、塩のむつごと--それを聞き取る耳には「女性」ではなく、人間を感じる。いのちを感じる。ところが「男女」という表現には「いのち」を感じない--こう書けば、私のいいたいことが伝わるだろうか。
「粘着質」もおなじである。
私は「女性詩」が嫌いである。
*
おなじ号の「猫の気分」の、
この行も美しい。この行も「頭」で書かれた行として分類することができる。ただし、「男女」のように「男」の「頭」に汚染されていない。「男」「女」という制度とは無縁の「頭」である。
こういう行は大好きだ。
真昼の台所で
味噌づくりをはじめる
ゆでた大豆をつぶして麹を混ぜ
塩をぱらぱらとふり
さっくりと混ぜ合わせていく
麹も塩も
知り合ったばかりの男女のように
そっけなく冷やか
「知り合ったばかりの男女のように」がいい。ここから当然大豆と麹(塩)はとけあってゆく。
その2連目がすばらしい。
夜ふけて
麹たちは深呼吸しながら
ふわふわはカラダを揺らしている
聞こえないほどの小さな声で
おしゃべりをしている
それは大豆と塩との睦まじい戯言で
深い夜のしじまのなかで
麹も塩も変わろうとしているらしい
大豆も塩も溶けてなれあい
自分をなくしていく
ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む
麹たちのため息が満ちて
味噌に変わる瞬間を待ちわびている
跡形もなく消え去る
塩の心を知っているらしい
「深呼吸」「カラダ」「小さな声」「おしゃべり」「睦まじい戯言」「なれあい」。全部セックスである。セックスを想像させるように書いている。しかし、むりがない。とくに、
ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む
が絶妙である。
味噌をつくったことがあるひとなら知っていると思うが、実際に麹が発酵するときのざわめきのようなものが布をかけるとふっと静かになる。布は埃をさけるためなのか、保温のためなのか知らないが、その瞬間にやってくる沈黙は、田島の詩を読んだあとでなら、たしかにエクスタシーの予兆なのだ、自己を超越して何かにかわるための予兆の沈黙なのだとわかる。
3連目もすばらしい。
朝の台所には
みめ汁のために用意した
葱の生くさい匂いが充満する
葱坊主をつむとき
ぽんとかすかに乾いた音がして
手にぬらりとまとわりつく
あの人への粘着質の殺意と欲望
発酵するふたりのあした
ちいさなわだかまりが
長い糸を引きながら落下する
最後の1行は、私の「好み」にあわないので省略した。「あの人への粘着質の殺意と欲望」の「粘着質」も私にはうるさく感じる。ない方がすっきりする。2連目の美しさがきわだつ。「粘着質」以降、ことばが少し「頭」に傾いている。「ぽんとかすかに乾いた音がして/手にぬらりとまとわりつく」という、葱坊主をつんだことのある人にしかわからないような、やわらかな感じ、肉体に眠る記憶を呼び覚ます美しさが、「頭」で書かれた「粘着質」以降、消えて行くのが残念である。
「ぱらぱら」「さっくり」「そっけなく」「冷やか」(1連目)、「ふわふわ」「ふわっと」(2連目)、「ぽんと」(3連目)。そうやって積み重ねてきたことばが「粘着質」によって別なものになってしまう。異次元になってしまう。それがとても残念。
とてもいい詩なので、あえて最後に気に食わない部分を指摘しておく。
*
「粘着質」と関係があるのかどうかわからないが、もう一か所、実は気にかかった部分がある。1連目「知り合ったばかりの男女のように」。あ、女性も「男女」というふうに「男」を先にして二人の関係を思い描くのかな? それが疑問だった。味噌のできる過程は、ゆっくり大豆、麹、塩のセックスにときほぐされているのに、二人の出会いは「男女」と「流通していることば」そのままである。これでいいのかな? もっと違った書き方があったのではないのかな?
「女性詩」という呼び方がある。
私は実は、「知り合ったばかりの男女のように」というような行に「女性」を感じる。「男女」という部分に「女性」を感じる。それは「男性」と対比することで存在する人間という意味である。夜更けの麹、大豆、塩のむつごと--それを聞き取る耳には「女性」ではなく、人間を感じる。いのちを感じる。ところが「男女」という表現には「いのち」を感じない--こう書けば、私のいいたいことが伝わるだろうか。
「粘着質」もおなじである。
私は「女性詩」が嫌いである。
*
おなじ号の「猫の気分」の、
猫がのこした空間に苦い水がしみる
この行も美しい。この行も「頭」で書かれた行として分類することができる。ただし、「男女」のように「男」の「頭」に汚染されていない。「男」「女」という制度とは無縁の「頭」である。
こういう行は大好きだ。