詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

指田一「鉛筆」

2007-07-01 15:40:27 | 詩(雑誌・同人誌)
 指田一「鉛筆」(「詩文学」158 、2007年07月01日発行)
 
息を吹き返したのは鉛筆だけだった
キャップをはめられ筆箱に並べられている
筆箱とキャップは消えたまま
名称だけが鉛筆のまわりをまだうろうろしている
物質が消え名称だけが

 「鉛筆」の書き出しである。何が書いてあるか一読しただけではわからない。わからないのに引きつけられる。鉛筆だけがくっきり見える。キャップ(たしかに、昔はそういうものがあったなあ。今もあるのかな?)筆箱は「ことば」だけの存在である。冒頭の1行ではないけれど「息を吹き返したのは鉛筆だけだった」という世界だ。
 これは、そういう世界になるように、指田が文体を工夫しているということなのだが。
 その「鉛筆」から、鉛筆の記憶へ。少女が鉛筆の芯で蟻を突き刺していた記憶へと、指田のことばは動いてゆく。先生が少女に注意している姿に。少女が先生に何か答えている姿へ。

鉛筆を削るのは母親だったんだ

 指田(幼い指田)は突然、思いもかけない「事実」を知る。鉛筆って自分で削るのではなく、母親が削るものだったのか。そういう世界があるのか、と。
 そして、指田は想像する。想像のままに、ことばは動いてゆく。

彼女が眠ると娘の机から居間のテーブルへ筆箱を移す母 娘には部
屋があり机があった(と勝手に決める) 居間には布団は敷かない
(と勝手に決める) テーブルの脚を折り畳んで立て掛けたりしない
(と勝手に決める) 母は西ドイツ製のナイフで鉛筆を削ろうとして
丸まった芯を見守っている ノートにねえ 文字や数字の化石に成
っているよ(と勝手に決める) ここでぼくの母を登場させようか
だめだって 内職が忙しい 貧しいかどうか子どもには判らない 感
じるかどうかだ 子どもは

 この想像に、幼い指田の日常が入り込んで、いきいきとしている。書いていないけれど、指田の家では居間に布団を敷く。布団を敷く前にはテーブルではなく、ちゃぶ台の脚をたたんで壁に立て掛ける。そういう生活だから、鉛筆を母が削るということはない。「削って」とたとえ頼んでみても「だめだよ、内職で忙しいんだから」という答えが返ってくるだけだ。自分で、手間隙かけて削るしかない。そして、自分で削ったものだから、それで蟻を突き刺すなんてことはしない。蟻を鉛筆の芯で突き刺す少女は自分で鉛筆を削らないからだ。--というようなことを感じている。もちろん、正確にそう感じたわけではない。自分とは違うと感じただけだ。だから、そういう「批判」はことばにはならなかった。ことばにならないまま、ずーっと、いままで隠れていた。それが、今、表にでてきて、指田にことばを書かせている。
 ことばがことばになるまでには時間がかかる。体験が必要なのだ。

忽然と彼女が現れ
消えた
あいつ バイオリンを習いに西ドイツへ留学したんだ
小学校の時の同級生が別世界をぶちまけた
白い煙にぼくは取り巻かれた気がしたような気がした

バイオリン 指 ナイフ 鉛筆を削る母は別世界から戻ってきまし
たが 彼女は 彼女は鉛筆で列をなす蟻を突き刺しています まだ
まだ終了しません

 鉛筆で蟻を突き刺すという行為(類似した行為)は、少女から別の少女へと引き継がれている。母親は少女の鉛筆を削るというようなことはもうしていない。そういう仕事(?)は引き継がれていない。(もっとも、これは少女たちが自分でナイフをつかって鉛筆を削るようになったからではない。)
 指田が何をしているひとなのか私は知らない。知らないけれど、たぶん、この詩は学校で起きていることを目撃(直接、間接かはわからない)して、ふと、それに類似した世界を指田自身が体験したことを思い出して書いたのだろう。
 子供たちはそれぞれに得体のしれない闇をかかえこんでいる。子供たちは、それが何か「判らない」。判らないけれど「感じる」。そして「感じ」に突き動かされている。

 その「感じ」をどうすればいいのだろう。指田は解決策を提言しているわけではない。ただ「感じ」そのものに共感している。共感といってもそれが正しいとか、同じ気持ちという意味ではない。そういう「感じ」があることを、ただ書いている。何が書きたいかわからないけれど、どういうものになるかわからないけれど、画家がただ手を動かして鉛筆でスケッチするように、鉛筆の動くままにスケッチしている。
 その「感じ」が、不思議に説得力がある。魅力的である。そうせざるを得なかった「少女」への思い、そうしなかった自分自身への「思い」が、ことばの底に流れているのを感じる。
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東京子『世界のために泣く夜』

2007-07-01 14:54:27 | 詩集
 東京子『世界のために泣く夜』(土曜美術社、2007年05月30日発行)
 「スパンコールドレス」という詩がある。そのなかほど。

真っ白な乳房の先に
桜の花びらを ひとひら
くっつけたような
彼女のはだかは理解不能に幼い

バラの蕾しかつんだことのないような
細い指先で
なぜか彼女は煙草ばかりを吸う

 ことばを書くことに夢中な感じが伝わってくる。詩はたしかにことばを書くことに夢中になるところから生まれてくる。そうではあるけれど、そのことばと肉体が切り結ばなければおもしろくない。
 この東のことばが紙に印刷されたものではなく、たとえばロックスターか何かが肉声で歌ったものであるのだとしたら印象は多少は(かなり?)違ったものになるかもしれない。
 声というものは独自の肉体を持っている。
 「彼女のはだかは理解不能に幼い」の「理解不能」は井上陽水が彼自身のメロディーにのせて歌えばとても強烈に響いてくる、伝わってくるだろうと思う。絶望的に美しく輝くだろうと思う。
 井上陽水自身の声が、ことばに背景を与える。声の奥にある肉体、くらい闇が、ことばの透明さ、輝きを浮き彫りにするのだ。
 ところが東のことばには、そういう不透明なものがない。不透明なものがないから、どれだけ透明なことばを重ねても、それは輝かない。透明なものは不透明なものといっしょに存在してはじめて透明なのだ。そして究極の透明なものは見えないし、また見えたと錯覚した部分も実は光の反射を見ているわけで、一種のめくらましの世界である。

 東がほんとうに詩を書きたいと思うなら、この詩集に書いたことばを全部否定するところからはじめなければならないだろうと思う。否定すべきことばの一覧表をつくった、という意味では、それなりに東にとっては意味のある詩集かもしれない。

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入沢康夫と「誤読」(メモ48)

2007-07-01 11:52:41 | 詩集
入沢康夫と「誤読」(メモ48)

 入沢康夫『遐い宴楽』(書肆山田、2002年06月20日発行)。
 「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」。つくられた「人形」が「わたし」。その「わたし」が歌う歌が「旅するわたし」である。その2連目の後半。

しかし 仮に あらゆる部分をとり除かれても
それでも わたしは在る 在らざるを得ぬ
わたしの造り主の《彼》
《彼》が居るかぎりは--

 人形からあらゆる部分が取り除かれても、それは人形だろうか。だいたい「あらゆる部分」を欠如したものなど存在しうるのか。存在しうる、と「わたし」は考えている。「わたし」は人形として存在するように見えるけれど、ほんとうは「造り主」の意識のなかにこそ存在するのであって、意識の外に存在するものは仮初めのものなのである。
 客観的に存在するものよりも意識内において存在するものを優先する、という入沢の重いが強く出た行である。

 この部分では「在る」と「居る」がつかいわけられている。
 ただし、そのつかいわけは、この部分だけでは、何が根拠になっているかはわからない。
 「在る」は現実世界にも想像世界にもつかわれることばであるけれど、「居る」は現実世界においてのみつかわれるということだろうか。
 どうもはっきりしない。
 はっきりしないからこそ、「在る」と「居る」とつかいわけられた主語が混じり合うということも起きる。

動くべくして動かぬ木製の歯車の苦い笑ひは
宇宙の無限性(夢幻性?)へのわたし(彼?)なりの挑戦で

 「わたし」と「彼」は無限の宇宙(夢幻の宇宙--つまりは、現実というよりは意識のなかで考えられた宇宙)で、見分けがつかなくなる。一体になる。--このことを入沢は「宴楽」と呼んでいるように思われる。

 「遐(とほ)い宴楽(うたげ)」には、人形と作者ではないが、「きみ」と「ぼく」という二人の人間が登場する。二人は人形の「わたし」と造り主の「彼」が融合したように、重なり合う。

たたなはる朱色の雲の下で
ぼくたちは果てしない夢について
果てしなく語り合つた
ときには同じものを違つたやうに見
ときにはまつたく違つたものを同じと見ながら……

 あるときは二人は「同じもの」のなかで違った存在になる。これはひとつのもののなかで「ふたり」が存在することである。またあるときは「違ったもの」のなかで「ひとり」になる。
 どちらも「誤読」である。
 「誤読」というのは「ふたり」の人間が存在することが必要なのである。
 「人形」は、四谷シモンというひとりの人間が世界を「誤読」するためにつくりだした「もうひとりのわたし」ということかもしれない。
 「誤読」する。その「誤読」こそが世界のすべてであるとするなら。

わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの?

 「旅するわたし」のこの冒頭の3行は罪深い行である。それが人形であるにせよ、「誤読」のために出現させられた存在である。その目的を人形は知らない。そして、その知らないという悲しみが--悲しみでありながら、不思議な郷愁を誘う。なつかしさを誘う。その3行は、人間の、永遠の疑問と重なるからだ。
 そのことを入沢は「遐い宴楽」で別のことばで語っている。

わけのわからぬ「恋情」にかり立てられ
本当には無いかもしれないものを追ひ
或いは 追はれて
一生をむざむざと費消(つか)つたのは
さう ぼくも きみも同じことだね

 「同じこと」。「こと」のなかでふたりは識別のつかない「ひとり」になる。
 「誤読」するために生まれ、「誤読」をとおして、ひとは「ひとり」になる。永遠の存在になる。その夢が、ここでは語られている。
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