河津聖恵『ルリアンス 他者と共にある詩』(思潮社、2007年06月25日発行)
「空気」「濃い」「薄い」「気圧」などのことばが随所に出てくる。たとえば柴田千晶『空室』にふれた「詩は「恋愛」になれるか」の冒頭。
河津にとって時代の空気は「薄い」。一方、身体は「濃い」。そこに「気圧差」が生じ、そこに「詩の現場」というものを感じている。
私はこの視点に疑問を持っている。(柴田の作品とは逆に、身体の方が薄く、「陰圧」を持っているととらえる視点もあるが、ここでは省略する。)「濃い」身体の、その身体が「女性の身体」(女性の肉体)と置き換えられ、「詩の現場」が「女性詩の現場」に置き換えられることに疑問を持っている。(これは、そのまま「女性詩」というくくりに対する疑問でもある。)
「時代の空気」が薄いとしたら、それは単に時代の空気をとらえる「ことば」(それぞれ個人のことば)が「薄い」からである。意識が「薄い」だけではないのか。「身体」が 「疲れ」「濃くよどんでいる」としたら、身体の疲労や淀みを表現することばが濃密になっているだけであり、「時代の空気」がもしそこにあるとするなら、「時代の空気」は「身体」が疲労し、よどむのを望んでおり、ことばはその望みにこたえているだけのことだろうと思う。
ことばは薄いものを批判するときは「薄いことば」で批判する。わざわざ「濃いことば」で批判はしない。もし、「薄いもの」を「濃いことば」で批判するとしたら、そのことばを発した人が、世間の人とは違って「薄いもの」を「薄くはない」と見ている証拠である。
詩から離れるが……。
安倍首相が赤城農相の事務所費が問題になったとき、「光熱費の月平均額は 800円。 800円で辞任させるのか」と野党に反論した。この軽いことば。薄っぺらなことば。それは安倍が事務所の問題を薄っぺらな問題、軽い問題と見ている証拠である。国民の税金がどんなふうに浪費されているかという問題を軽く見ている証拠である。安倍のことばに再反論できなかった野党も同じである。光熱費が(たぶん光熱水費のことなのだと思うけれど、つまり水道代も含むと思うのだけれど、電気代、ガス代だけだとしても)、月々 800円などということは普通の生活ではありえない。電気、ガス、水道には基本料金というものがある。そういうものもふくめて「 800円」だとしたら、それは事務所がなんの活動もしていなかったという証拠であり、事務所がちゃんと機能していたというのなら月々 800円が嘘になる。「なんとか還元水」が何千万円というのが嘘なら、光熱費が月 800円というのも嘘であり、国民の税金をどのようにつかったかと証明する際に、片岡農相が嘘をついたことと、赤城農相が嘘をついたこと、その嘘をついたことに対する重大性は同じなのである。何千万円という嘘が問題であり、月々 800円という嘘が許されていいということにはならない。赤城農相の月々 800円の嘘の背後には、もしかするとやはり何千万円という嘘が隠されている可能性があるからである。大きな嘘を隠すために小さな嘘をつき、露顕すると「小さな嘘なのに、それを問題にするなんて……」と逃げようとしているのである。
世界のあらゆることは、向き合い方次第で「薄いもの」になったり、「濃いもの」になったりするのである。
批評(批判)にとって一番大切なことは、自分以外の要請(たとえば「時代の要請」)にはけっして乗らない。自分自身の基準を明確に持つことである。
こんなことを書いてしまうのは、河津のことばが、吟味され、正確なものであるにもかかわらず、どうも、「時代の要請」に乗って動いているように見えるからである。
「女性詩」=「身体性」というくくりで「女性詩」が語られるとしたら、それは「時代」が「女性」を「身体性」という枠のなかでとらえたがっていたからだろう。新しい詩の書き手が登場する。女性である。その作品はおもしろいのだが、どう評価していいのか、批評のことばがみつからない。手っとり早く、「女性」=「女性の身体」という枠をつくってしまえば作品について語ることができる。たぶん、男性詩人が女性の詩人たちがつくりだした新しい潮流をひとくくりにして、「男性詩」とは別の存在であると定義することで、「男性詩」を既得権として守ろうとした--そういう動きはなかっただろうか。
そうした保守的な、既得権を守ろうとしてつくりだされた「薄っぺら」な「枠」であったからこそ、それは女性の書く詩の力によって、なし崩し的に消えていかざるをえなかったのではないのか。
これはまた別な視点から言えば、「女性詩」ということばが登場したとき、「男性」は「女性」を理解するのに「身体」の違い(ペニスを持っているか、子宮を持っているか)程度しか知らなかったということかもしれない。とりあえず明確に見える「違い」を中心にして「枠」をつくる。--これは、安倍の「月 800円の光熱費」という「枠」の作り方と同じである。本当はそんな「枠」自体が嘘である。無効である。「枠」(ことば)は都合に合わせでどんな具合にも薄っぺらにできるのである。
*
疑問に思ったことだけを、もう二つ書いておく。
ひとつは、瀬尾育生について語った文章。その冒頭。
これは、先に引用した柴田の作品についての言及の言い換えのようなものである。(これは悪い意味で書いているのではない。そんなふうに河津の論は一貫しているという意味で書いている。論理的であり、正確であるという証拠になる部分である。)「私」と「世界」は空気の濃度が「薄い」「濃い」という違和感とともにあり、その違和感が「詩の現場」である、と河津は一貫して考えている。
そして、そういう「詩の現場」を提示した上で、河津は瀬尾の論を引用して、河津自身の論を補強する。「二重の言語」(瀬尾)ということばを、河津の論の方へ引き寄せる。
こんなふうに読んでもらえ、瀬尾はしあわせだろうなあ--と思いながら、一方で浮かび上がる疑問。
私の感じていることは今まで言われていることとは違う。誰も感じていないことを私は感じている。そういう「違い」(異和『というものがあったとして、そのことによって、「自分」を一般化されまいとすること、そういうことばを書くことが「詩」を書くこと? ええっ? 私は驚いてしまう。逆じゃないのか。自分が感じていることはみんなの言っていることとは「違う」。でも、それを「違ったまま」の状態にしておきたくはない。むしろ逆にだれかにわかってもらいたい。そして、まず誰かひとり、できればふたり、3人と共感してくれる人が増え、「一般化」(普遍化)してほしいというのが、「物書き」の願いではないのだろうか。
河津の論は、何か、「詩」を特異なものにしようとしているように思える。女性の書いた詩を「女性詩」と呼ぶことで、何か特異なひとつのジャンルにしようとした時代に似通った意識が感じられる。
河津の論が論理的で正確であるだけに、何か、ちょっと、言い難い感じ、いやな感じを覚えてしまう。
瀬尾の論理によっかからずに、もっとていねいに河津自身のことばを追っていけば、違ったものがあらわれたかもしれない。
もうひとつ。吉本ばななについて触れた文章。
私は、いま引用した文の最後の部分(自分が、自分に気づくということは「変化」とはいいがたい)にびっくりしてしまった。読み違えたのかと思って、読み返した。引用しながらも、いまでも読み違えではないかとびっくりしている。
自分が自分に気づくということ以上の変化があるのだろうか。
私は、いまこうして感想を書いているが、その感想がほんとうに書きたいこととは少しずつちがっていることに気づいている。そして、そういうことは、もし、本当の自分に気がつけばすっかり解決して、新しい文章を書きだすことができるようになる。
自分に気づきたい。
自分に気づきたいから、私は、気づかないまま、気づいたように感じる部分を書いている。
漱石の小説がある。なんでもいいけれど、どの作品も私には、主人公が「自分に気づく」小説だと思って読んでいた。自分に気づく。自分を発見する。そうして「自然」にかえる。その「変化」がいつでも感動的である。自分に気づく以上の「変化」が人間にあるとは私には思えないのである。
「空気」「濃い」「薄い」「気圧」などのことばが随所に出てくる。たとえば柴田千晶『空室』にふれた「詩は「恋愛」になれるか」の冒頭。
今、私たちは、私たちのこころにとってどんな気圧の、どんな濃度の時代の空気の中で生きているのだろう。(略)どこかひどく「薄い」という感じを私の知覚の先端はとらえ、それが私だけのものでないと確信している。だが一方、身体の方はその「薄さ」についていけず、とまどい疲れ、だがそのぶん濃くよどんでいるとわかる。
河津にとって時代の空気は「薄い」。一方、身体は「濃い」。そこに「気圧差」が生じ、そこに「詩の現場」というものを感じている。
私はこの視点に疑問を持っている。(柴田の作品とは逆に、身体の方が薄く、「陰圧」を持っているととらえる視点もあるが、ここでは省略する。)「濃い」身体の、その身体が「女性の身体」(女性の肉体)と置き換えられ、「詩の現場」が「女性詩の現場」に置き換えられることに疑問を持っている。(これは、そのまま「女性詩」というくくりに対する疑問でもある。)
「時代の空気」が薄いとしたら、それは単に時代の空気をとらえる「ことば」(それぞれ個人のことば)が「薄い」からである。意識が「薄い」だけではないのか。「身体」が 「疲れ」「濃くよどんでいる」としたら、身体の疲労や淀みを表現することばが濃密になっているだけであり、「時代の空気」がもしそこにあるとするなら、「時代の空気」は「身体」が疲労し、よどむのを望んでおり、ことばはその望みにこたえているだけのことだろうと思う。
ことばは薄いものを批判するときは「薄いことば」で批判する。わざわざ「濃いことば」で批判はしない。もし、「薄いもの」を「濃いことば」で批判するとしたら、そのことばを発した人が、世間の人とは違って「薄いもの」を「薄くはない」と見ている証拠である。
詩から離れるが……。
安倍首相が赤城農相の事務所費が問題になったとき、「光熱費の月平均額は 800円。 800円で辞任させるのか」と野党に反論した。この軽いことば。薄っぺらなことば。それは安倍が事務所の問題を薄っぺらな問題、軽い問題と見ている証拠である。国民の税金がどんなふうに浪費されているかという問題を軽く見ている証拠である。安倍のことばに再反論できなかった野党も同じである。光熱費が(たぶん光熱水費のことなのだと思うけれど、つまり水道代も含むと思うのだけれど、電気代、ガス代だけだとしても)、月々 800円などということは普通の生活ではありえない。電気、ガス、水道には基本料金というものがある。そういうものもふくめて「 800円」だとしたら、それは事務所がなんの活動もしていなかったという証拠であり、事務所がちゃんと機能していたというのなら月々 800円が嘘になる。「なんとか還元水」が何千万円というのが嘘なら、光熱費が月 800円というのも嘘であり、国民の税金をどのようにつかったかと証明する際に、片岡農相が嘘をついたことと、赤城農相が嘘をついたこと、その嘘をついたことに対する重大性は同じなのである。何千万円という嘘が問題であり、月々 800円という嘘が許されていいということにはならない。赤城農相の月々 800円の嘘の背後には、もしかするとやはり何千万円という嘘が隠されている可能性があるからである。大きな嘘を隠すために小さな嘘をつき、露顕すると「小さな嘘なのに、それを問題にするなんて……」と逃げようとしているのである。
世界のあらゆることは、向き合い方次第で「薄いもの」になったり、「濃いもの」になったりするのである。
批評(批判)にとって一番大切なことは、自分以外の要請(たとえば「時代の要請」)にはけっして乗らない。自分自身の基準を明確に持つことである。
こんなことを書いてしまうのは、河津のことばが、吟味され、正確なものであるにもかかわらず、どうも、「時代の要請」に乗って動いているように見えるからである。
「女性詩」=「身体性」というくくりで「女性詩」が語られるとしたら、それは「時代」が「女性」を「身体性」という枠のなかでとらえたがっていたからだろう。新しい詩の書き手が登場する。女性である。その作品はおもしろいのだが、どう評価していいのか、批評のことばがみつからない。手っとり早く、「女性」=「女性の身体」という枠をつくってしまえば作品について語ることができる。たぶん、男性詩人が女性の詩人たちがつくりだした新しい潮流をひとくくりにして、「男性詩」とは別の存在であると定義することで、「男性詩」を既得権として守ろうとした--そういう動きはなかっただろうか。
そうした保守的な、既得権を守ろうとしてつくりだされた「薄っぺら」な「枠」であったからこそ、それは女性の書く詩の力によって、なし崩し的に消えていかざるをえなかったのではないのか。
これはまた別な視点から言えば、「女性詩」ということばが登場したとき、「男性」は「女性」を理解するのに「身体」の違い(ペニスを持っているか、子宮を持っているか)程度しか知らなかったということかもしれない。とりあえず明確に見える「違い」を中心にして「枠」をつくる。--これは、安倍の「月 800円の光熱費」という「枠」の作り方と同じである。本当はそんな「枠」自体が嘘である。無効である。「枠」(ことば)は都合に合わせでどんな具合にも薄っぺらにできるのである。
*
疑問に思ったことだけを、もう二つ書いておく。
ひとつは、瀬尾育生について語った文章。その冒頭。
生きるリアリティとは言葉になりがたいものだ。それは、「この私」「自分」さらには「身体」や「欲望」にひそむものであり、外部に向かっては言葉(観念としての)や社会のシステムへの違和感という「体感」となってあらわれる。むしろ生きるリアリティとは自足するものではなく、そうした異和の場所にこそ存在しうるものである。
これは、先に引用した柴田の作品についての言及の言い換えのようなものである。(これは悪い意味で書いているのではない。そんなふうに河津の論は一貫しているという意味で書いている。論理的であり、正確であるという証拠になる部分である。)「私」と「世界」は空気の濃度が「薄い」「濃い」という違和感とともにあり、その違和感が「詩の現場」である、と河津は一貫して考えている。
そして、そういう「詩の現場」を提示した上で、河津は瀬尾の論を引用して、河津自身の論を補強する。「二重の言語」(瀬尾)ということばを、河津の論の方へ引き寄せる。
この詩論集の論理をたどれば「区別」とは、「いまここにいる自分」が一般的なものから身をふりほどく身振り、力のことであり(『区別』とは固有な他者と自分との間に異和(「違う」)が存在するか否かを語るもので、自らをその固有の他者と区別することで、自分が自分であること=『同一性』へと照らし返されることである」)、異和(「違う」)という身振りによって、「自分」を一般化されまいとする態度のことだ。すると詩は、「二重化」という自体が覆うなか、「言語一般」に対しそのつど「違う」と身振りするものであり、そうした身振りの喚起する生きるリアリティが呼びよせる、そのつどに固有の言葉の領域であるといってもいいだろう。
こんなふうに読んでもらえ、瀬尾はしあわせだろうなあ--と思いながら、一方で浮かび上がる疑問。
私の感じていることは今まで言われていることとは違う。誰も感じていないことを私は感じている。そういう「違い」(異和『というものがあったとして、そのことによって、「自分」を一般化されまいとすること、そういうことばを書くことが「詩」を書くこと? ええっ? 私は驚いてしまう。逆じゃないのか。自分が感じていることはみんなの言っていることとは「違う」。でも、それを「違ったまま」の状態にしておきたくはない。むしろ逆にだれかにわかってもらいたい。そして、まず誰かひとり、できればふたり、3人と共感してくれる人が増え、「一般化」(普遍化)してほしいというのが、「物書き」の願いではないのだろうか。
河津の論は、何か、「詩」を特異なものにしようとしているように思える。女性の書いた詩を「女性詩」と呼ぶことで、何か特異なひとつのジャンルにしようとした時代に似通った意識が感じられる。
河津の論が論理的で正確であるだけに、何か、ちょっと、言い難い感じ、いやな感じを覚えてしまう。
瀬尾の論理によっかからずに、もっとていねいに河津自身のことばを追っていけば、違ったものがあらわれたかもしれない。
もうひとつ。吉本ばななについて触れた文章。
心の変化を中心とした「小説」。けれど吉本のそれはいわゆる心理小説や私小説ではない。それは心の「内容」にみたされているわけではないから。あるのはただ「変化」であり、しかもそれは自分が自分の心のありさまに気づくといった態のものである。本当の意味で変化ともいえない(自分が、自分に気づくということは「変化」とはいいがたい)。
私は、いま引用した文の最後の部分(自分が、自分に気づくということは「変化」とはいいがたい)にびっくりしてしまった。読み違えたのかと思って、読み返した。引用しながらも、いまでも読み違えではないかとびっくりしている。
自分が自分に気づくということ以上の変化があるのだろうか。
私は、いまこうして感想を書いているが、その感想がほんとうに書きたいこととは少しずつちがっていることに気づいている。そして、そういうことは、もし、本当の自分に気がつけばすっかり解決して、新しい文章を書きだすことができるようになる。
自分に気づきたい。
自分に気づきたいから、私は、気づかないまま、気づいたように感じる部分を書いている。
漱石の小説がある。なんでもいいけれど、どの作品も私には、主人公が「自分に気づく」小説だと思って読んでいた。自分に気づく。自分を発見する。そうして「自然」にかえる。その「変化」がいつでも感動的である。自分に気づく以上の「変化」が人間にあるとは私には思えないのである。