詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本純子『海の日』

2007-07-21 22:00:58 | 詩集
 山本純子『海の日』(花神社、2007年08月21日発行)
 2006年01月13日に「男の子が三人」、2006年10月26日に「満月」についての感想を書いた。その2篇がこの詩集に収められている。どちらもとすも好きな作品だ。その2篇については、上記の日記を読んでください。きょうは別の作品について感想を書く。
 「月」。

まるい月をじっとみていると
月のふちのところが
じわじわ
うごいているように見える

わたしのことで
そして
わたしの知らないことで
ともだちが
何かいいことを知っているとき
ともだちの
顔のふちのところが
じわじわと
うごいていることがある

だから
まるい月のじわじわを
じっとみていると
おもう
何かわたしに
いいことがあるのかなあ


 山本の人間観察力は不思議だ。日常のなにげない変化、微妙な肉体の変化や、ふともらしたことばをていねいにすくいあげ、それがいきいきと動きだすまで大事にあたためている。卵からひながかえるように、人間のこころが肉体やことばの殻を破ってよちよち歩きだすのをうながすように。その「よちよち歩き」が「よちよち」だけに、ちょっと「現代詩」として弱いかなあ、という印象があるかもしれない。しかし、「よちよち歩き」の「よちよち」はほんとうはとても力に溢れている。なんといっても、それまでとは違った世界へ歩きだす一歩なのだから。
 この詩では、山本は人が何かいいことを知っていて、それを言おうかな、どうしようかな、と思っているとき、表情がいつもと微妙に違うことについて書いている。どんなふうに違うのか。違うとしか、じつはわからない。むりやりことばにすれば「じわじわ」。この「じわじわ」は「ことば」が「じわじわ」と顔までのぼってくる感じかもしれない。「ことば」「こころ」が「じわじわ」と胸の奥からのどを通って、口元までやってくる。「言おうかな、どうしようかな」。言うまいと押さえつけている力も「じわじわ」変化している。
 私はついついことばを重ねてしまうのだが、山本はことばを重ねず、瞬間だけをさっと切り取って、その「呼吸」を輝かせる。この「呼吸」について説明するのはむずかしいが、とても気持ちがいい。やわらかな、だれをも傷つけない声を聞いたときのような、人にやさしく語りかけるときの声を聞いたような、その声というよりも、その人の「呼吸」そのものを聞いたときのような感じなのだ。

 「少年」もとても好きだ。

この草
何ていうんだろう、と
三人で取り囲んで

穂さきが
か細く
風になびいているから
けむり草にしよう、と
三人で決める

本当は
何ていうんだろう、と
ときどき考えながら
大人になって

ある日ふいに
聞かれる
おとうさん、
この草何ていうの

ああ、それ
けむり草

 ふっと生まれた「こころ」。そして「ことば」。少年三人がいっしょに生み出した「こころ」と「ことば」。「ことば」のなかの「こころ」。それが肉体となっている。肉体となっているから、ふっと「呼吸」した瞬間に、その息のなかに「声」になってあらわれてくる。
 でも、それは「声」ではなく、やっぱり「ことば」の「こころ」なんだなあ。「ことば」には「こころ」があるし、その「ことば」には肉体もある。それにとても自然な、すべすべの赤ちゃんのような「からだ」だ。
 山本の詩について書くとき、「肉体」ということばをつかってきたが、本当は「からだ」と書くべきだったなあ、といまごろになって思う。


コメント
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