詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「金色の朝と夜」

2007-07-27 12:42:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「金色の朝と夜」(「白黒目」6、2007年07月01日発行)
 きょうもまた豊原の詩を繰り返し読んだ。「金路胃の朝と夜」。その書き出し。

みこしの音がきこえる
僕の万年布団にも。
僕は直角に立ち上がり
窓を開けて、「ええなあ、子供は。」

 私はこういうことばづかいをしない。「みこしの音がきこえる/僕の万年床にも。」となら書くかもしれない。「僕は垂直に立ち上がり」となら書くかもしれない。「万年布団」ではなく「万年床」、「直角」ではなく「垂直」。私は無意識の内に、日常的につかわれることばにひきずられてしまう。ところが豊原は、そういう部分で踏みとどまる。豊原自身のことばで言い直す。
 こうした言い直しがあるから「ええなあ、子供は。」というつぶやきが、普通の「子供」への感嘆とは違った形になっても驚かない。「無邪気で、いいなあ」「純粋で、いいなあ」という感慨を、次の行に呼びよせなくても、それは当然なことのように感じられる。豊原独自の感情が、すっと立ち上がってくる。

みこしの音がきこえる
僕の万年布団にも。
僕は直角に立ち上がり
窓を開けて、「ええなあ、子供は。」
幼児たちの頼りなげな佇まい。

 「幼児たちの頼りなげな佇まい。」この1行は、「万年床」や「垂直に立ち上がる」という常套句のとは無縁の、深い深いところからふいに立ち上ってきた1行である。肉体と感情がそのまま無垢に輝いている。無垢ゆえの不思議ないのちが輝いている。
 詩はつづく。

ワッショイ、ワッショイ
 僕は直ぐ、窓を閉めタバコを吸った 五本ほど吸ってうがいしていると
僕の心の中の幼児が ワ…ショイ、ワ…ショイ、と
囁き始めた。

 豊原はもちろん「幼児」ではない。タバコを吸い、タバコを吸ったあとはうがいをする大人である。そういう肉体をもっているのだが、幼児の無垢ないのちの輝きに触れたために、こころは幼児と一体になってしまうのである。
 豊原が不思議なのは、この一体感を一体感のままずーっと維持し、そのなかに没入するということがない。豊原自身の「違和」を「状況」(場)として描き出す。

僕はみこしを追いかけていた。
みんな容器で。にこにこしていて。
僕というオッサンに周りのヒトからの
危険な視線を感じた。
幼児が言った
「なーに?何か用?なーに」
(別に…用はナイ。)
僕は気力を失って、万年布団に入って、

 ふいに、悲しみが押し寄せてくる。
 いのちの無垢に触れえたことの悲しみが。その悲しみは「愛(かな)しい」がそのまま「いとおしい」「うれしい」という一体感になりえないという「哀しみ」である。

 豊原の詩は「愛」ということばが「愛しい」という具合につかわれる、「かなしい」ということばとなって、「哀しい」「悲しい」につながってゆくことを教えてくれる。
 肉体のどこかに、「愛」が「かなしい」ものでありながら「哀しい」(悲しい)ものへと変わる「場」があることを教えてくれる。

コメント
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