詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野谷美智子『コレクション』

2007-07-10 14:57:54 | 詩集
 野谷美智子『コレクション』(洛西書院、2007年07月15日発行)
 不思議な文体である。ことばの奥にもっと別のことばがある、という印象がある。最初は舌足らずな感じ。そして足りない分だけ象徴性が強いという印象。その象徴性にひっぱられるように読むのだが、すぐには何かが出てくるという感じでもない。
 ほんとうに書きたい何かがあるのだが、その何かを正確に書くために、余分なことばを脇へよけるようにしてことばが進んで行く--そんなふうにことばを書き進めている姿が目に浮かぶ。
 タイトルになっている「コレクション」が一番おもしろかった。

一本の線があって
それが国境である
指は そのどちら側でも
同じように動く

指を買いませんか
という声を聞いた

指を売りませんか
という声を聞いた



女はいくつもの棚を作り 指を飾っている 銀色の指
無花果を掴んだままの指 水がめの中に浮いている指
なめまわしたい 噛み切りたい 撫でてほしい 女は
そっと溜息をつく

それにしてもエルグレコの絵の中の指が忘れられない
ひどいボロをまとった男でも指だけは違う 天蓋のつ
いた寝台で 絹の夜具をすべらせて愛撫をくり返した手
だ 十字架を担うキリストもそう キリストは確かに死
んだあの指だけは死んでいないと思ってしまう

女はいつもその棚に戻る ヴァイオリンを奏でている指
がある 聞こえる筈のない旋律がまわりを浸し 眼の中
一杯に指の影が乱舞する 痛みと痒さがからみあい 絶
望的な指との遠さに耐えきれず 女は声を上げる あの
時の あの人の指が消えていく

 「指」がさまざまに変化する。そして、その変化の奥に「あの人の」記憶がある。
 棚にある「指」はすべて記憶の指。「銀色の指」はどこで見た指だろうか。エルグレコの絵のなかでないのは確かだ。(エルグレコの描いた指は、そのあとで明確に書かれているのだから)無花果を掴んだままの指は芝居で見た指だろうか。水瓶のなかに浮いている指は本で読んだ指だろうか。
 指。指。指。
 記憶が積み重なって、記憶を解きほぐす。記憶が積み重なって、記憶の奥からほんとうの指があらわれてくる。ほんとうの指があらわれるまで、野谷はことばを積み重ねる。指を拾い集める。

 「指」は形を変えて別の作品にも登場する。「くせ」。

あきもせずテレビドラマを見ている
ありふれた話だと思いながら
何度も手の爪の生えぎわをむしっている
むずがゆい感じで
生えぎわの皮がはがれてくる
うすくつながっている皮を
無理にひきちぎると
痛いけれど息をのむ快感がある

 甘皮のことだろうか。ささくれをひきちぎる。
 「むずがゆい」「痛い」は「コレクション」のなかにあった「痛みと痒さがからみあい」に通じる。
 野谷の感覚は触覚に集中し、だからこそ触覚と深い関係のある「指」に思いが集まるのかもしれない。
 そっとそっと、慎重にことばを重ねながら、最後は「無理」を承知で「ひきちぎる」。その瞬間血がにじむ。その感じが快感なのだろう。指先にとどまらず、野谷の一番大切な部分へと、その快感はつながっていくのだろう。
 「くせ」の最後の2行。

爪の生えぎわから血がにじみだすと
乳房の先がピリピリする

 この告白(?)は美しい。肉体がある。肉体がある、という美しさだ。野谷に会ってみたいなあ、という欲望にそそられる。



 抑制されていたことばが野谷に逆襲して(?)、ふいに動くのだろうか。そのとき、野谷がふいに身を隠すことを忘れて表に出てしまうのだろうか。そういう部分に、何とも言えない不思議な魅力がある。「街角」の次の部分も印象的だ。

そうだ
呼吸をしているというだけで
ヒトは安心してヒトを憎むことができるのだ
大勢のヒトと
黙ってすれ違っていくこともできるのだ
死んだ人には
何か余分な言葉が要るようで

 「そうだ」とは、確かに野谷がつかっているように、自分自身のそれまでの考えから別の考えへ突き進むための掛け声かもしれない。
 「コレクション」にはいくつもの「そうだ」が隠れれている。書かれていないけれど、連と連の変わり目、その1行空きに「そうだ」を補って読むと、野谷のこころの動きがよりリアルに伝わってくるかもしれない。
 「そうだ」と声にならない声を出して、野谷は、連から連へと渡り、自分自身へ近づく。肉体へ近づく。

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長嶋有『夕子ちゃんの近道』

2007-07-10 12:08:41 | その他(音楽、小説etc)
 長嶋有夕子ちゃんの近道』(新潮社、2006年04月30日発行)
 第1回大江健三郎賞の受賞作。連作。「夕子ちゃんの近道」について大江健三郎は

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 を取り上げて、受賞の決め手にしたというようなことをどこかの新聞で語っていた。
 「なんと呼ぶかわからないが」。
 この節はほんとうにおもしろいと思う。普通、小説は「なんと呼ぶかわからないが」というものを「地」には書かない。書いていない。読者が知っていようが知るまいが、無関係に製品名を書く。知らなければ読者が調べればいいのである。
 「なんと呼ぶかわからないが」がそのまま「地」の部分になっているということは、それが実は主人公の「視点」をそのまま反映しているからだ。そして、その「視点」の反映のさせ方が自然なのだ。主人公にもわからないことはたくさんある。それをわからないということばそのままに取り込み、そのときにできる主人公と世界との距離(尺度)を一定に守り続ける。そこから独自の世界がひろがりはじめる。
 たしかに象徴的な文章だと思う。

 ほかの作品を読んだことがないのではっきりしないが、「地」に主人公の感覚をそのまま持ち込むときの手法が少し風変わりなのは長嶋の特徴かもしれない。
 会話の部分も独特の書き方をしている。

「うち、風呂ないですよ」銭湯ですよ、知ってるでしょう。
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです」もうずっと使われてないみたいです。

 普通は、

「うち、風呂ないですよ。銭湯ですよ、知ってるでしょう」
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです。もうずっと使われてないみたいです」

 と書くだろう。主人公の話したことばをわざわざ「 」の外へ出したりはしないだろう。
 主人公は、実際に声に出したのはどこまでなのだろう。
 作者が「 」のなかに入れていることばが実際に声になったことばであり、「 」の外のことばは主人公がこころの中で思っただけのことばかもしれない。たしかに、そんなふうにつかいわけているのだ。
 ひとはことばにして相手にいうことばと、思っていても声にしないことばがある。そして、その思っていても声にしないことばは、では通じないかというと、通じる。現実の場では、長嶋が「 」の外に出していることばは発言されなくても、言外の意味として明確に伝わってくる。
 長嶋は、こうした「言外の意味」(言外のことば)をくっきりと聞き取る耳をもっているのだろう。その耳に特徴があるのだろう。

 洗濯物干しの描写にでてきた「なんと呼ぶかわからないが」も、実は「言外の意味」(言外のことば)である。

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 から「なんと呼ぶかわからないが」を省略してみると、そのことがよくわかる。

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 現実の風景は少しもかわらない。小説のなりゆきにどんな変化もない--と一瞬思ってしまう。
 ところがそうではない。
 「なんと呼ぶかわからないが」によって、主人公の人間性に深みが出てくる。主人公の生き方、考え方が、主張という形ではなく、じわーっとにじみでてくる。
 長嶋はたしかに新しい文体を確立したのだと思う。大江健三郎は、新しい文体の小説を探し出し、そこに小説の、文学の可能性を見出そうとしているのだと思った。

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