詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・シャインバーグ監督「毛皮のエロス」

2007-07-25 22:35:29 | 映画
スティーブン・シャインバーグ監督「毛皮のエロス ダイアン・アーバス幻想のポートレイト」

監督 スティーブン・シャインバーグ 出演 ニコール・キッドマン、ロバート・ダウニーjr

 ダイアン・アーバスという写真家を私は知らない。
 この映画は、ひとりの女性がどのようにしてダイアン・アーバスという写真家になったかを独自の視点で描いている。
 ダイアン・アーバスは異様なものが好きである。自分にないもの、を持っているからか。そういう部分はあるだろうが、それよりも異様なものは何かを隠しているからである。肉眼では見えないものを持っているからである。それは、誰にも触れさせない「精神性」のようなもの、である。
 そうしたものを表現するために、なぜ、ダイアン・アーバスは写真(カメラ)を選んだのか。たまたま昔から写真を撮っていた。夫が写真家だったので、写真になじみがあった……。いろいろ理由はあるだろうが、そのひとつのヒントとなるシーンがある。
 夫がコマーシャルの写真を撮っている。ダイアン・アーバスがその手伝いをしている。何人もの女性がにっこりほほえんで立っている。その、写真になる前の、現実が気に入らない。どうも違っていると思う。ところが夫にうながされ、いっしょにファインダーを覗く。そして、これでいい、と納得する。カメラをとおして世界を見ると違って見えるのである。肉眼で見た世界と、夫がファインダー越しに見ていた世界は違っていたのである。それは、もし、ダイアン・アーバスが自分でファインダーを覗いて世界を切り取れば、そこにはほかの誰かが撮影したものとは違った世界、違った写真ができあがることを意味するだろう。写真の世界は、撮影者が誰であるかによって、世界そのものが違うのだ。そういうことを発見する。(このあと、ダイアン・アーバスは夫の撮影助手をやめる。)
 ダイアン・アーバスは、たとえば多毛症の隣人に近づく。シャム双生児に近づく。手のない女性に近づく……。異様な肉体。肉眼で見えるその形を超越して立ち上がってくる精神--それがダイアン・アーバスには感じられるからであり、感じられるからには、それを写真に撮れば、他の誰かが撮った写真とはまったく違ったものになるからだとわかっているからだ。
 映画は、もっぱらダイアン・アーバスが多毛症の男にひかれて行く姿を描いている。
 その過程で、とてもおもしろい映像が繰り返される。ダイアン・アーバスは、多毛症の男を訪問するために、たとえば階段を上る。そのときカメラは、ダイアン・アーバスの足元を、階段を上るスピードにあわせて移動しながら映し出す。カメラが固定されていて、その枠のなかの階段をダイアン・アーバスが上っていくのではない。カメラそのものが階段を上っていくのである。ダイアン・アーバスは動かずに、背景が動くのである。
 これはとても暗示的なシーンである。
 ダイアン・アーバスが誰かを撮影するために接近する。そのとき動くのはダイアン・アーバスではなく、世界が動くのである。ダイアン・アーバスがたとえば多毛症の男を撮る。そのときダイアン・アーバスの視線が変わるのではなく、その写真を見ることによって、世界の視線が変わるのである。
 私はダイアン・アーバスの写真を知らないので感想はいえないけれど、ダイアン・アーバスによってポートレイトの世界(写真の世界)がかわった言う映画のクレジットに書かれていたことが真実だとすれば、それは、ダイアン・アーバスが対象にカメラで接近するとき、世界の視線がダイアン・アーバスといっしょに動いてしまったということだろう。ダイアン・アーバスは何一つ変わらない。世界の視線が変わるのである。

 ニコール・キッドマンは、透明な肌のなかに独自のいのちで輝く視線で、目の不思議、そしてカメラの不思議を演じきっていた。驚くべき役者である。彼女が異様な人間に近づくたびに、世界の輪郭がゆらぐ。他の人は、まだダイアン・アーバスの写真を見ていないので、彼女が見ている世界がどのようなものかわからない。そして、うろたえる。そのうろたえを認識しながら、ダイアン・アーバスはさらに世界を変形されながら異様な者たちに近づいて行く。異様な者たちの持っている秘密の至高性のようなものに近づいて行く。その目の力がすばらしい。何回か繰り返される「あなたの秘密を聞かせて」ということば、そしてその秘密をしっかりと受け止める力だ。

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たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」

2007-07-25 21:49:04 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」(「coto」14、2007年07月27日発行)
 2連目がとてもおもしろい。

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

 何が書いてある? わからない。けれども音がおもしろい。「植えるでも海凪ウエルカムでもなく、」は「うえるでも・うみなぎ・うえるかむ・でもなく、」と読むのだと思うけれど、音のうねりがとても不思議だ。読んだあと(私は黙読するのだが)、ちょっと声に出してみたくなる。うみなぎ、の「ぎ」は鼻濁音で読む。そうすると「な」行と美しく響きあう。
 次の行の「海彼」はどう読む? 「うみ・かれ」? たなかの意図はわからないが「うみ・かれ」と読むと「うみなぎ・うえるかむ」が短縮されたようで、なんだか笑いだしたくなる。
 たなかは耳が非常にいいのだと思う。そして、耳だけでなく目もいいのだと思う。ことばを読むとき、口蓋・のど・舌をつかうのはもちろんだが、たなかは耳をつかう。そして目もつかう。
 「木の頭蓋にモノカゲを」の「カゲ」は「造影的」「影」となって繰り返される。
 音と文字(耳と目)が、ことばのなかで繰り返され、詩が動くのである。繰り返しのなかで意味を失ない、失なうことで新しい意味を誘う。
 1、2、(途中を省略して)、最終連を引用する。

とっくに木の鱗は
なぎ
払われた
浮遊空間のその針目をどんどん詰めるには
いまや枝ぶりも葉ぶりも定かではない、

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

(略)

釘をたてつづけにただ釘を
斜めに釘を遊離空間だからもっぱら釘を
重力散布には反れ反れ釘耳わたり、
水母の羽振りをアカペラで攪拌しつつ
地を這うようにぐるぐる釘を

 1連目の「なぎ/はらわれた」の「なぎ」は2連目の「海凪」の「凪」に、1連目の「葉ぶり」は最終連の「羽振り」に、そして2連目の「ぺらぺら」は最終連の「アカペラ」のなかで蘇る。耳と目が、ときおりちゃんと聞いているか、ちゃんと見ているか、と叱咤激励(?)される感じだ。
 最終連の「反れ反れ」は「それそれ」と囃子詞のように、耳と目をあおる。


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