詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

レン・ワイズマン監督「ダイ・ハード4.0 」

2007-07-02 15:12:17 | 映画
監督 レン・ワイズマン 出演 ブルース・ウィリス、ジャスティン・ロング

 デジタル世界に挑むアナログ刑事--というふれこみだけれど、デジタルな映像ばかりが目立つ。特にトンネルのシーン。車が衝突して飛んでくる。それを身をかがめてかわそうとするブルース・ウィリス。両脇をちょうど2台の車が平行して走り、その屋根に飛んできた車がぶつかり刑事は救われる。あ、あ、あ。これってデジタル映像でないとできないシーンだよなあ。映像は完全にデジタル処理の世界なんだなあ。--予告編からわかっていたことではあるけれど、これってつまらないね。
 ヒーローが不死身であるのはいい。けがをしろ、血を流せ、なんてことは思わないけれど、映像に、これこそ肉体で勝ち取ったもの、という印象がないと、見ていてまったくはらはらしない。どうせ助かるんだろう、とたかをくくってしまう。
 これじゃあ、映画にならない。
 途中、いまどき珍しいハム通信がでてきて、ブルース・ウィリスはそれを活用する。「最後に生き残るのはデジタルではなくアナログだ」などというせりふも用意されていて、そのあたりは「ごていねいな伏線」という感じがして笑えるのだが。
 しかし、最後の最後。究極のアナログシーンが物足りない。
 ブルース・ウィリスがつきつけられた銃で自分の肩を打ち抜き、背後(背中にぴったり体をくっつけている)悪人を殺すというシーンが早すぎて映像になっていない。だからどうしても娘に「自分の体を撃つなんて」というせりふで説明させている。
 これでは映画とはいえない。
 映画はあくまで映像。そして、音。せりふはそえもの。ストーリーそのものもそえもの。トンネルのシーンにしろ、ヘリコプターを車をつかって撃墜させるシーンにしろ、高速道で戦闘機と戦うシーンにしろ、それはあくまで映像を見せるものでしょ? そうしため人を驚かす映像もいいけれど、もっともっと、ああ、なるほどなあ、と納得させる肉体的なシーンがないと、アナログ人間の魅力が伝わって来ない。
 ストーリーとしてはアナログ刑事がデジタル軍団に勝つというものだけれど、映像としてはアナログ人間がデジタル処理されて動かされているというテーマとは逆のものになってしまってる。
 ヒットだけを狙ったハリウッド・ハリウッド・ハリウッドした、シリーズ作ならではの安直な映画でした。
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城戸朱理「世界-海」

2007-07-02 14:21:52 | 詩(雑誌・同人誌)
 城戸朱理「世界-海」(「現代詩手帖」2007年07月号、2007年07月01日発行)

 とても美しい行がある。

光自体は色ではない
色彩とは事物自体の属性ではなく
事物が反射した光の波長
ならば、人が見る色彩とは
事物が拒否した波長であり
「壊れた光」にほかならない

 「壊れた光」。この美しいことば。それを引き出す「拒否」ということば。
 「想像力」を定義して、「ものをゆがめて見る力」と言ったのはバシュラールだったと記憶しているが、ここにはそうした「ものをゆがめて見る力」の美しさ、暴走してしまう精神の力の美しさがある。論理の暴走の美しさがある。
 そして、この論理の暴走を支えているのが「ならば、」である。「ならば、」という「接続助詞」が城戸の「キーワード」である。前出のことばを引き受け、そのことばを明確に意識しながら次へ進むということばの運動。それが城戸の詩である。
 この「ならば」は冒頭にも、ひっそりと溶け込んでいる。

「泉(トイレ)」という場所は
なぜ、それほどまでに瞑想的なのか?
その秘密を思いつつ、山上にあるならば
”雷鳴”のごとき沈黙が訪れる

 この「ならば」はかなり強引である。強引にことばを動かしていくためにつかわれている。強引さが城戸のことばの特徴である。
 この強引さは随所にある。言い換えると、強引な行の展開、ことばの展開のあいだに、「ならば」が書かれない形で存在している。
 たとえば次の展開。

犬が吠えている
ときには「おうおう」と人のような声で泣き
あるいは「わうわう」と嘆くように泣く
そして、母音をふたつ掛け合わせると
どうしたことか、人間は
ひどく遠くへ旅立つことになる
生命には「死」という暗号が組み込まれ、
「生」とは、その暗号を
解いていくプロセスにほかならない

 「ひどく遠くへ旅立つことになる」から「生命には「死」という暗号が組み込まれ、」への飛躍。ここに「ならば、」を挿入すると城戸の精神の動き、ことばの動きがよくわかる。そこにはほんとうは脈絡はない。自然な脈絡はない。城戸だけがつくりだした脈絡があり、その脈絡のあかしとして「ならば、」が隠れたまま存在している。隠れているのは、表に出てくると強引さが目立つからである。強引さを隠すために「ならば、」も隠れているのである。
 もう一か所。

「気づくと窓の外に雪が降っていました
外に出てみると、雪の匂いがして素敵でした」
言葉から雪が匂い立つことがある
欲望に即したシンタックスでは
その色彩は記述しえない

 「言葉から雪が匂い立つことがある」と「欲望に即したシンタックスでは」のあいだにも「ならば、」が存在する。「ならば、」を挿入したところで、論理が明確になるわけではない。客観的な論理、科学的な論理、倫理的な論理、あらゆる論理が「ならば、」の存在によってスムーズになるわけではないが、城戸は、そういう時に「ならば、」を欲する。そうして、その「ならば、」を省略した形で存在させてことばを動かしてゆく。
 「ならば、」は接続助詞であるが、「接続」とは同時に「切断」を意識することでもある。「切断」した状態、本来つながっていないもの。そこへ向けてつながってゆく。
 このつながりは、「接続」というよりは「飛躍」である。
 ほんとうはつながっていないのに、城戸はその切断の「あいだ」を「飛躍」することで、「深淵」を消してしまう。「深淵」を消してしまうとき、同時に「ならば、」も消してしまっている、と言った方がいいかもしれない。



 「消す」。消すことによる「飛躍」。そういう要素も城戸の詩の手法である。冒頭の

「泉(トイレ)」という場所は

 ここにはデシャンが隠されている。消されている。有名なスキャンダルだから、そういうものは表に出さなくても誰もが知っている、だから書かない、といえばそれまでだが、そうしたことが随所に存在する。
 こうした手法は、私には、「頭」で詩を書いているという印象として、強く残ってしまう。「ならば、」も「頭」の動きかもしれないが、「頭」の透明さではなく、どこか肉体の「不透明さ」があって、私は信じることができる。というか、あ、ここは信じてついて行ってみようという気持ちになる。「頭」で理解していることを捨てて、もっと論理の「肉体」で動いていけばおもしろいのに、と城戸の作品を読むたびに思う。


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