齋藤健一『実体風貌』(穀物社、2003年01月01日発行)
(谷内注・『実体風貌』の「実体」は旧字体)
ことばが簡潔だ。その簡潔さは余分なものを剥ぎ取ることで真実に近づくという齋藤の基本的な姿勢を浮き彫りにする。
「冬の日」の書き出し。
「物悲しい充実」が美しいが、それに先立つ「家の近くを」という一語がとてもいい。知らない街や観光地ではない。十分知っている街。目をつむっても歩ける路。肉体になじんでいる路だ。
その街と同様、息子の手も父にとってはなじみのあるものだ。何度も何度も握った手。その小さな手が父の手をしっかりと握りしめる。知らない街で、ではなく、いつもいつも遊び回っている「家の近く」で。
「家の近く」が、この詩の一番いい部分である。
「家」が「心情」を揺さぶるのである。
*
齋藤のことばは、しずかに齋藤自身の肉体の内部へ内部へと沈み込む。「顔のはなし」の最後の2行。
「なっていく」ではなく「なっている」。この「いる」が「物悲しい充実」につながる。「なっていく」なら「なっていかないように」することもできるかもしれない。しかし、齋藤はいつでも「なっている」ことを発見するのである。もちろん「なっていく」結果として「なっている」があるのかもしれないが、齋藤にはこの「なっていく」が欠落して、突然「なっている」状態を発見するだけなのである。
「生成」ではなく「存在」としての齋藤。--そういうことを感じた。
おなじ「顔のはなし」の、引用に先立つ部分。
「歩いている」にもかかわらず「どこへも行かない」。これが齋藤である。どこかへ行くということは、何かになるということだが、そういうことは齋藤には起きない。あるいは、そういう変化を齋藤は拒絶している。
「ぼくは(略)ぼくに出会う」「ぼくは途方もなく立ち止まる」。立ち止まるために齋藤は詩を書く。立ち止まるとは「物悲しい充実」そのものとして、いま、ここに「いる」ことである。
「存在論」としての詩、ということばが、ふっと浮かんだ。
(谷内注・『実体風貌』の「実体」は旧字体)
ことばが簡潔だ。その簡潔さは余分なものを剥ぎ取ることで真実に近づくという齋藤の基本的な姿勢を浮き彫りにする。
「冬の日」の書き出し。
ぼくが六歳と五歳の息子ふたりの手をひいて家の近くを
歩くときの物悲しい充実はいったいどこからやってくる
のだろう。子供は父の手をしっかりと握りしめる。この
とき子供は親の心情をすべて了解している。
「物悲しい充実」が美しいが、それに先立つ「家の近くを」という一語がとてもいい。知らない街や観光地ではない。十分知っている街。目をつむっても歩ける路。肉体になじんでいる路だ。
その街と同様、息子の手も父にとってはなじみのあるものだ。何度も何度も握った手。その小さな手が父の手をしっかりと握りしめる。知らない街で、ではなく、いつもいつも遊び回っている「家の近く」で。
「家の近く」が、この詩の一番いい部分である。
「家」が「心情」を揺さぶるのである。
*
齋藤のことばは、しずかに齋藤自身の肉体の内部へ内部へと沈み込む。「顔のはなし」の最後の2行。
みるみるうちに
ぼくはぼく自身になっている
「なっていく」ではなく「なっている」。この「いる」が「物悲しい充実」につながる。「なっていく」なら「なっていかないように」することもできるかもしれない。しかし、齋藤はいつでも「なっている」ことを発見するのである。もちろん「なっていく」結果として「なっている」があるのかもしれないが、齋藤にはこの「なっていく」が欠落して、突然「なっている」状態を発見するだけなのである。
「生成」ではなく「存在」としての齋藤。--そういうことを感じた。
おなじ「顔のはなし」の、引用に先立つ部分。
ぼくは歩いている
ぼくはどこへも行かない
「歩いている」にもかかわらず「どこへも行かない」。これが齋藤である。どこかへ行くということは、何かになるということだが、そういうことは齋藤には起きない。あるいは、そういう変化を齋藤は拒絶している。
海は何も見えない
それは歯の内側へ飛んでくる
荒い浪がおしよせてくる
しぶきは空高く舞いあがり
ぼくの中で破裂する
ぼくは熱い唇をかみしめる
まっ青な雲。
ぼくはてくてくと歩き、ぼくに出会う
ぱっちりと眼をひらいて。
ぼくはどこへもゆかない
ぼくは途方もなく立ち止まる
風邪の前で雪が落下しはじめる
花はぼくを知らない
「ぼくは(略)ぼくに出会う」「ぼくは途方もなく立ち止まる」。立ち止まるために齋藤は詩を書く。立ち止まるとは「物悲しい充実」そのものとして、いま、ここに「いる」ことである。
「存在論」としての詩、ということばが、ふっと浮かんだ。