詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「鶴見線」

2007-07-07 23:11:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 廿楽順治「鶴見線」(「ガーネット」52、2007年07月01日発行)

ひだりがわに煙突がみえているのはいい
ひだりがわで でこぼこの鉄がたくさんつくられている
世間はひだりがわからつくられていく
この路をあるいているわたしにとってはそうなのだが
あぶないな、それは極左じゃねえか
というひとはいるかもしれない

 書き出しの6行。
 「あぶないな、それは極左じゃねえか/というひとはいるかもしれない」がちょっとかわっている。相対化というのとは違う。相対化を通り越して、強制的にリセットする感じがする。
 普通、詩は、というのは、もちろん私の知っている詩のことだが、こんなふうにリセットしない。
 「世間はひだりがわからつくられていく」という行を踏まえて、どんどん増殖していく。どこまで「世間はひだりがわからつくられていく」という行をつづけることができるか、その行の果てへと自己拡大して行けるか、ということを試みる。(典型が、たとえば鈴木志郎康である。)
 廿楽は、強引には自己拡張をしない。--というのではない。自己拡張してもたどりつけない世界があることをはじめから知っていて、底から先を一種のブラックボックスにしてしまう。「世間はひだりがわからつくられていく」ということばを聞いたところで、ひとは「あぶないな、それは極左じゃねえか」などとは言わない。「みぎ・ひだり」というのはそのときの立場によって違う。「この路をあるいているわたしにとってはみぎがわからつくられていく」ということを廿楽は知っていて「あぶないな、それは極左じゃねえか」ということばを持ち込んでいる。相対化ではなく、相対化の視点をブラックボックスに閉じ込めて、笑いによって、その閉じ込める行為を隠蔽してしまう。
 廿楽にとっては、自己拡張は、どこかで必ず隠蔽を含むのである。隠蔽ということばがきつすぎるならば、どこか、ある方向への自己拡張は笑いによって、そこから先へは進まないようにするのである。
 そしておもしろいことに、その一種の隠蔽によって、廿楽は同時にそこにとどまる。隠蔽したものの遠くへ遠くへ自己拡張するのではなく、その「場」で、地下を掘るように、垂直に自己拡張する。誰とも共有できない感覚を掘り進むように、あばき立てるように自己拡張する。
 リセットは、そこにとどまるための手段のように思える。水平方向へ進みそうになるのを、引き止め、垂直方向へ方向転換するための手段のように思える。

 こんなふうに始まる自己拡張を、誰か共有できるかな?

 わからない。わからないけれど、もしかしたら、どこかに、廿楽の書いていることを、あ、これこそが自分の感じていたことだと思う人がいるかもしれない。その存在を信じて、ていねいにていねいに廿楽はことばを動かしている。
 「漢字」ではなく「ひらがな」で。つまり、イメージを結晶化しないように、イメージの結晶を掌でなでながら一枚一枚はがすように。「ひらがな」も、ここにとどまり、垂直方向へ、自己の内部へおりていくための手段かもしれない。
 この手つきの感じが、なかなかいい。
 池井昌樹を思わないこともないけれど、たぶん方向が逆だ。
 池井は宇宙へ放心する。廿楽は地下へ放心する。

ひだりがわではたらいているひとは報われない
いじきたなくにんげんでいるひつようもないのである
油さえあればわたしは決められた方へ動いていく
(前方よし)
ひだりがわに煙突がみえているふうけいはいい
おべんとうをもってあるいていることとなにもかわらない
円熟した世間はひだりがわからつくられていく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高良留美子「工事のあと」

2007-07-07 21:22:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 高良留美子「工事のあと」(「something 5 」、2007年06月25日発行)

わたしたちは水溜りをまたいで通った
それでも靴を少しよごした
道にはもうシャベルも
つるはしも 運搬機もなかった

埋め戻された土に水がたまり
夜の風が一面に小じわを立てていた
下水管が埋められて
ゆるやかな 地下の進軍が終わったのだ

わたしより低いところにあった手によって
ひと掬いずつ削りとられた赤土の層の底に
横たわる土管のために
筋肉と汗と ゆるやかな行軍が捧げられたのだ

 「わたしより低いところにあった手によって」。この1行が好きだ。この手の位置によって、工事そのものが見えてくる。工事する人間の肉体が見えてくる。
 この肉体への共感を高良は特別に書いているわけではない。単純に「筋肉と汗」と田け書いている。たったそれだけだが、そこには肉体を生きる人間への共感がある。
 「横たわる土管のために」の「ために」ということばにそれを感じる。「ゆるやかな行軍が捧げられたのだ」の「捧げられた」にそれを感じる。
 私たちの世界は、多くの何かの「ために」、肉体が「捧げられ」ている。
 そうしたことを高良は感じ続けている詩人なのかもしれない。

 高良は人間の「連帯」を信じる詩人なのだと思った。



 きのうの日記、アップするとき数行欠落しました。(原因不明)
 補足しましたので、きのうの日記もお読みください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする