入沢康夫『アルボラーダ』(書肆山田、2005年08月30日発行)。
「哀唱自傷歌」のたとえば、次の部分。
ことばはどこから「意味」になっていくのだろうか。
「ポポイ」→ポパイ、「Oh! leaves! 」→「Oh! leave!」→オリーブ、「南無妙法連想/砲連装」→ほうれん草。
詩の内容とは無関係に、音を手がかりに「意味」が動いて行く。音さえも「誤読」されていく。あらゆる「意味」は、「誤読」である。どう読みたいかによって「意味」が決まって行く。そしてその「意味」を決定するのは、あくまで「読者」である。
「ポポイ」を「ポパイ」と「誤読」されたいとは西脇は思わなかっただろう。しかし、「ポパイ」と「誤読」されるということまで拒絶するかどうかはわからない。入沢の読んだようにことばが動いていくなら、それは、むしろ歓迎したかもしれない。
西脇は、とても音楽的な詩人である。
この部分を取り上げたのは、入沢の詩についてふれると同時に西脇について思っていることも書きたかったからである。
西脇は「絵画的な」詩人であるとよく言われる。西脇が絵を描いていることも関係しているかもしれない。しかし、西脇は、私にとっては「絵画」であるよりも「音楽」である。ことばの生まれる場所が「絵画」よりも官能的であり、それは「音楽」でしかたどりつけないように思える。「おお ポポイ」から始まるこの部分は、もちろん西脇を踏まえている。入沢も西脇を音楽的と考えているのだろうか。そこから始まる世界は「音」が飲み込んでしまう世界を取り込んでいる。
*
「白龍禍」は入沢が「長編詩」の計画を手紙の形で語っている。八甲田山の雪の行軍の悲劇を長編詩に書き上げたいと願っている。その計画を語った部分。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」。これを、「逆」ということばで、入沢は結びつけている。この「逆」という意識がおもしろい。ものごとにはなんでも「逆」のものはあるだろう。(「逆」のものがあることを私たちは知っている。)そして、それが出会って一つになったとき、おもしろいものができる、ということも私たちはだいたい納得している。
この「逆」のなかに、「誤読」はないだろうか。
「大凡の枠組み」とは相いれない「極々の細部」。「大凡の枠組み」を否定し、暴走してしまう「極々の細部」があることを私たちは知っている。暴走するとき、そこには「誤読」がある。だが、この「誤読」、細部の暴走におもしろいもの、暴走するエネルギーのおもしろいものがある。そこに詩が存在する--そう感じることがある。
逆の、「極々の細部」を受け入れることができなくて、そういう細部を拒絶してしまう「大凡の枠組み」というものもある。これも「誤読」であろう。こういうときはなぜか詩を感じない。窮屈さを感じてしまう。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」を矛盾させないためには、どこかで省略が必要である。すべてを「極々の細部」によって作るのではなく、どこかで「手抜き」というか、「大凡の細部」という、論理的に矛盾した部分をものを作らないことには、ふたつのものはつながらない。
それは「誤読」のゆりかごのようなものかもしれない。
明確にわかっていることと、明確にはわからないもの。その間にある「ゆらぎ」。その「ゆらぎ」のなかで「誤読」が育つのだろうと思う。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」。入沢が書くに当たって「利用」すると宣言しているもの。これは書くと宣言しているものと言い換えてもいいだろう。そして、その「中間」にあるものについては、入沢は書くとも書かないとも「宣言」していない。なぜか。それは書くことが当然であると入沢が無意識に信じているからである。
その「中間」にあるもの、それは「大凡の枠組み」と「極々の細部」の「構造」であるとも言い換えることができる。「構造」はすでに入沢の意識のなかにある。その「構造」が「大凡の枠組み」と「極々の細部」という形で言語化されたとき、「作品」になる。
「哀唱自傷歌」のたとえば、次の部分。
《おお ポポイ
(略)
必敗の濁冥王
美しく散つて行くなあ Oh! leaves!
ヴェネチヤ風のブロンドではないが
Oh! leave!
南無南無 南無妙法連想
砲連装 三連装
ことばはどこから「意味」になっていくのだろうか。
「ポポイ」→ポパイ、「Oh! leaves! 」→「Oh! leave!」→オリーブ、「南無妙法連想/砲連装」→ほうれん草。
詩の内容とは無関係に、音を手がかりに「意味」が動いて行く。音さえも「誤読」されていく。あらゆる「意味」は、「誤読」である。どう読みたいかによって「意味」が決まって行く。そしてその「意味」を決定するのは、あくまで「読者」である。
「ポポイ」を「ポパイ」と「誤読」されたいとは西脇は思わなかっただろう。しかし、「ポパイ」と「誤読」されるということまで拒絶するかどうかはわからない。入沢の読んだようにことばが動いていくなら、それは、むしろ歓迎したかもしれない。
西脇は、とても音楽的な詩人である。
この部分を取り上げたのは、入沢の詩についてふれると同時に西脇について思っていることも書きたかったからである。
西脇は「絵画的な」詩人であるとよく言われる。西脇が絵を描いていることも関係しているかもしれない。しかし、西脇は、私にとっては「絵画」であるよりも「音楽」である。ことばの生まれる場所が「絵画」よりも官能的であり、それは「音楽」でしかたどりつけないように思える。「おお ポポイ」から始まるこの部分は、もちろん西脇を踏まえている。入沢も西脇を音楽的と考えているのだろうか。そこから始まる世界は「音」が飲み込んでしまう世界を取り込んでいる。
*
「白龍禍」は入沢が「長編詩」の計画を手紙の形で語っている。八甲田山の雪の行軍の悲劇を長編詩に書き上げたいと願っている。その計画を語った部分。
計画中の長詩では この事件を底の底の下敷きにはしま
すが 表立つてそれを叙述するといふわけではなく 大凡
の枠組みと そして 逆に極々の細部とでこれを利用・活
用することにならうと思ひます。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」。これを、「逆」ということばで、入沢は結びつけている。この「逆」という意識がおもしろい。ものごとにはなんでも「逆」のものはあるだろう。(「逆」のものがあることを私たちは知っている。)そして、それが出会って一つになったとき、おもしろいものができる、ということも私たちはだいたい納得している。
この「逆」のなかに、「誤読」はないだろうか。
「大凡の枠組み」とは相いれない「極々の細部」。「大凡の枠組み」を否定し、暴走してしまう「極々の細部」があることを私たちは知っている。暴走するとき、そこには「誤読」がある。だが、この「誤読」、細部の暴走におもしろいもの、暴走するエネルギーのおもしろいものがある。そこに詩が存在する--そう感じることがある。
逆の、「極々の細部」を受け入れることができなくて、そういう細部を拒絶してしまう「大凡の枠組み」というものもある。これも「誤読」であろう。こういうときはなぜか詩を感じない。窮屈さを感じてしまう。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」を矛盾させないためには、どこかで省略が必要である。すべてを「極々の細部」によって作るのではなく、どこかで「手抜き」というか、「大凡の細部」という、論理的に矛盾した部分をものを作らないことには、ふたつのものはつながらない。
それは「誤読」のゆりかごのようなものかもしれない。
明確にわかっていることと、明確にはわからないもの。その間にある「ゆらぎ」。その「ゆらぎ」のなかで「誤読」が育つのだろうと思う。
「大凡の枠組み」と「極々の細部」。入沢が書くに当たって「利用」すると宣言しているもの。これは書くと宣言しているものと言い換えてもいいだろう。そして、その「中間」にあるものについては、入沢は書くとも書かないとも「宣言」していない。なぜか。それは書くことが当然であると入沢が無意識に信じているからである。
その「中間」にあるもの、それは「大凡の枠組み」と「極々の細部」の「構造」であるとも言い換えることができる。「構造」はすでに入沢の意識のなかにある。その「構造」が「大凡の枠組み」と「極々の細部」という形で言語化されたとき、「作品」になる。