豊原清明「小学校の恋」(「白黒目」6、2007年07月01日発行)
小学生の初恋の相手は学校の先生と決まっているわけではないが、まわりの児童とひとりだけ違っているのでどうしても意識が先生にいってしまう、ということがあるかもしれない。それが「初恋」といえば「初恋」かもしれない。--よく思い出せないいが、豊原のことばを読みは出すと、そのよく思い出せないということが、なんだか悔しくなる。豊原はいつでもリアルに思い出せるのである。過去が現在を突き破るように噴出してきて、今でも、過去でもない時間、「永遠」という時間をつくりあげる。
豊原のことばの不思議さは「私」という存在に拘泥しないことかもしれない。「私」のかわりに、「状況」に忠実である。ある状況のなかで、「私」はいつでも「私」を中心にして考えているわけではない。あ、あの人は、今、こんなふうに考えている、感じている--ということをふくめて「状況」である。そして、豊原は、そういうときに「私はあのひとがこう感じている、と思う」とは書かずに、その人になってしまって「状況」に加わる。
「詩」というよりも、「劇」なのである。
以前、他の雑誌で清原が映画のシナリオを書いたのを読み、非常に感心した。傑作だと思った。そこでは登場人物がそれぞれ過去を持っていて、その過去が「状況」のなかへ噴出してくる。そして動いていく。それと同じことが「詩」でも行なわれている。
小学校の恋を思い浮かべる豊原がいる。恋を思い浮かべた瞬間から、児童が生きてくる。児童が豊原の思いを裏切るように、あるいは豊原の思っていることを超越して、児童のこころの真実の世界へ入っていく。そのとき「児童」は「児童」という「枠」を超え、ひとりの人間になっている。「こころ」になっている。
「ぐずるっと、泣くの。」という描写もすばらしいが、その直後の
が、とてもおもしろい。「白い世界」の「白い」は「児童」にしかわからない色である。「彼は」と書いているのは、その「児童」を豊原が外から見ている。どの行も、こんなふうに対象と豊原が融合している。その融合が「超越」であり、「永遠」の入口である。
いったん、「永遠」の入口まで来てしまえば、あとは、ただ加速し、「永遠」を突っ走る。
ふいにあらわれる「生硬なことば」。世界がショートしたような感じ。これもまた豊原の詩を活気づかせている。豊原のことばは「尺度」が一定していない。そのかわりに「ショート」が一定している。奇妙な言い方しかできないが(私自身、きちんと把握できていないから奇妙なことばになってしまうのだが)、その「ショート」のタイミングがとても美しい。
「ぐずるっと、泣くの。」もある意味では「ショート」だし、「ああ、ああ、ああああああ!」以後はれんぞく「ショート」、花火の共演のようなものかもしれないが、その「ショート」が物理的というよりは、なんというのだろう「いのち的」なのだ。
そこが、とてもおもしろい。
小学生の初恋の相手は学校の先生と決まっているわけではないが、まわりの児童とひとりだけ違っているのでどうしても意識が先生にいってしまう、ということがあるかもしれない。それが「初恋」といえば「初恋」かもしれない。--よく思い出せないいが、豊原のことばを読みは出すと、そのよく思い出せないということが、なんだか悔しくなる。豊原はいつでもリアルに思い出せるのである。過去が現在を突き破るように噴出してきて、今でも、過去でもない時間、「永遠」という時間をつくりあげる。
児童というひとが
いるのだろうか
唯、彼は苛められることもなく
傷だらけになって、
体育館にもたれていた
女教師の顔を思い浮かべて
ぐずるっと、泣くの。
白い世界に入って、
彼は膝をかかえ
くらっと頭を垂れる。
ああ、ああ、ああああああ!
ふざけた男がやってきて、
チンチン電車に乗っている。
昔は何処かに消えてゆく。
白い詩を思い浮かべながら、
彼は死から生へ、逆流を繰り返し、
母親がやってきて連れて帰って
女教師はホッとした。
豊原のことばの不思議さは「私」という存在に拘泥しないことかもしれない。「私」のかわりに、「状況」に忠実である。ある状況のなかで、「私」はいつでも「私」を中心にして考えているわけではない。あ、あの人は、今、こんなふうに考えている、感じている--ということをふくめて「状況」である。そして、豊原は、そういうときに「私はあのひとがこう感じている、と思う」とは書かずに、その人になってしまって「状況」に加わる。
「詩」というよりも、「劇」なのである。
以前、他の雑誌で清原が映画のシナリオを書いたのを読み、非常に感心した。傑作だと思った。そこでは登場人物がそれぞれ過去を持っていて、その過去が「状況」のなかへ噴出してくる。そして動いていく。それと同じことが「詩」でも行なわれている。
小学校の恋を思い浮かべる豊原がいる。恋を思い浮かべた瞬間から、児童が生きてくる。児童が豊原の思いを裏切るように、あるいは豊原の思っていることを超越して、児童のこころの真実の世界へ入っていく。そのとき「児童」は「児童」という「枠」を超え、ひとりの人間になっている。「こころ」になっている。
「ぐずるっと、泣くの。」という描写もすばらしいが、その直後の
白い世界に入って、
彼は膝をかかえ
くらっと頭を垂れる。
が、とてもおもしろい。「白い世界」の「白い」は「児童」にしかわからない色である。「彼は」と書いているのは、その「児童」を豊原が外から見ている。どの行も、こんなふうに対象と豊原が融合している。その融合が「超越」であり、「永遠」の入口である。
いったん、「永遠」の入口まで来てしまえば、あとは、ただ加速し、「永遠」を突っ走る。
死から生へ、逆流を繰り返し、
ふいにあらわれる「生硬なことば」。世界がショートしたような感じ。これもまた豊原の詩を活気づかせている。豊原のことばは「尺度」が一定していない。そのかわりに「ショート」が一定している。奇妙な言い方しかできないが(私自身、きちんと把握できていないから奇妙なことばになってしまうのだが)、その「ショート」のタイミングがとても美しい。
「ぐずるっと、泣くの。」もある意味では「ショート」だし、「ああ、ああ、ああああああ!」以後はれんぞく「ショート」、花火の共演のようなものかもしれないが、その「ショート」が物理的というよりは、なんというのだろう「いのち的」なのだ。
そこが、とてもおもしろい。