詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷良太『ひなたやみ』

2007-07-30 08:24:14 | 詩集
 大谷良太『ひなたやみ』(ふらんす堂、2007年07月11日発行)
 無為の時間を大谷は描いている。たとえば「台風」。

台風が近づいているらしく、
雨が降ったり止んだりした
ベランダの洗濯紐のしなる音がガラス越しに聴こえた
朝から何も食べず、
じっとしている内に夕暮れになった

明かりもつけないでいるうちに夜になった

 そして、この無為を特徴づけるのが「ベランダの洗濯紐のしなる音がガラス越しに聴こえた」の「ガラス越し」である。何かを直接体験するというよりは、何かを媒介にしている。洗濯紐のしなる音を直接聞くのではなく、ガラス窓という「へだたり」を置いて聞く。このとき見だけではなく、目も強く意識されている。肉体が、聴覚と視覚がとけあっている。感覚を融合させるための無為--そう呼ぶことができるかもしれない。
 似た描写は「朝」にもある。

私は網戸にして
しばらく風の音を聴いた
(こんな軒下にも吹く風

 「窓を開けて」ではなく、わざわざ「網戸にして」。夏だから虫が入って来ないように「網戸にして」なのかもしれないが、わざわざそうした行(ことば)を挿入するところに、何か対象と直接的に触れたくない、間接的に触れることで、肉体になじませたいというような欲求めいた本能を感じる。
 肉体と対象をさえぎる何か(ガラス窓、網戸)がない場合にも、不思議な間接性が導入される。「何をしていても」。

川魚屋の店先に
水が流れていて
それが側溝に吸われていく具合を見ていた

 「それが」。これは「強調」とも受けとれるけれど、大谷の詩全体をとおしてみてくると、強調というよりは、「間」、「一呼吸」のための「言い直し」のように感じられる。「流れる水」を直接見るのではない。「流れる水」というものをいったん意識して、そのあとで「吸われていく具合」を見る。この「具合」ということばも大谷の思想の微妙さを語っている。「吸われていく」を直接見るのではない。あくまで「具合」を見るのだ。
 対象と自己(大谷)のあいだにある距離、「間」。大谷の意識は常に「間」のなかでゆらいでいる。

 これは人間を描くときも同じである。人間との関係を、大谷は「間」とは感じさせないような「間」で描いている。
 「午後」。社員食堂の昼。

食器返却口でおばさんが
ちゃわんを洗っている
ごちそうさま、と挨拶をして
階段を屋上に昇った

 「ごちそうさま、と挨拶をして」が美しい。行為として美しいというのはもちろんだが、おばさんとの距離の具合が美しいのだ。常に人と人が接するときの「間」がそこに存在する。「ごちそうさま」という「間」をとおして、大谷は食堂のおばさんと向き合っている。
 もうひとつ、「路地」。狭い路地が入り組んだ街での人と人のすれ違い。

出口に
ひょこっと頭が現われて
待っていると
おじさんがやって来る
すいませんね、と挨拶を交わしたりなんかして
あるいは私が通っていると
あちらで待っているということもある

 これは食堂での「ごちそうさま」と同じように暮らしのなかで培われてきた礼儀といえばそれまでなのだが、現代ではそういう「礼儀」という「間」が失われつつあるだけに、そういう「間」を大切にし、それをことばとして意識し、書き記すところに大谷の「間」を重視する思想があらわれている。
 この「間」から、冒頭の2篇、「うっとうしかった」と「泣いている」(ともに「日記」の別なところで書いた)を読むと、大谷の精神が何に傷つくかがよくわかる。大谷の感受性がよくわかる。「間」の越境に大谷は震えるのである。

 「間」の揺らぎのなかで、ひっそりと自己を守ろうとしている繊細な詩人がここにいる。


コメント
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