藤井五月「鳥の定点」(「現代詩手帖」2007年07月号)
第1連。
森を手に入れると、
机の水は
本を綴じる紐に変わる。
擦れた音を残して
「机の水」をどうとらえるか。私は「机」の板(木材)の「水分」と読んだ。乾燥した板に「水」はないかもしれない。記憶だけかもしれない。「水」の記憶--それを読み取る人間の意識。それが「本を綴じる紐に変わる」。記憶がことばを綴じて行く。そして「本」という物語になる。「擦れた音」は本のページが擦れ合う音だろうか。それとも「机」の「水」の記憶の擦れる音だろうか。
イメージが交錯し、ことばのなかへなかへと誘われる。
冒頭の「森を手に入れると、」は「鳥」にとっての「森」だろう。人間の記憶と鳥の意識--鳥に意識があると想定する人間の意識が交錯し、わずか4行だが、それだけで深い深いことばの森にさまよい込んだ感じだ。
鋏が確かめるようにして山道を切り落としている。
柔らかい石と
歪んだ石の間に
千切れた羽根を残し
私がさまよい込んだ「森」は、しかし普通の森ではない。「本」の(物語の)「森」なのだろう。書物の森とも言い換えてもいいかもしれない。だからこそ「鋏」で「森」のなかの道(山道)を切り落とすこともできる。
こうしたことばの動き(運動)には、私はいつも魅了される。
イメージが完結する前に動き、動くことで前のイメージを深めながら否定して行く。
そのイメージが途中から不思議な感じで変質する。
貼りついた苔の、広い地面を剥いてしまう。
薄緑の波線に
音を投げ入れる人。
指の、指紋を剥いてしまう。
手に裸足の跡を残し、
消して行く。
書き写したいのに
白い紙が埋めつくす、湖岸で。
ビルは崩れる。
電話は鳴りやまない。
電子音に
傷ついた鳥を見ている。
「人間」という抽象が、ふいに「私」という具体にかわり、肉体をもって動きはじめた感じがする。
「指の指紋を剥いてしまう。」にあらわれた肉体。そして「剥いてしまう」という同じことばが「地面」と指紋」を結ぶことからはじまる空間と肉体の強引な(?)交錯。そしてそこから肉体がもう一度変化する。
「電子音に/傷ついた鳥を見ている。」
「電子音に/傷つく鳥」というのは、抽象的な存在なのに、奇妙に肉感的なのだ。というより、「剥いてしまう」で引き寄せられた肉体、「私」という存在の視線(肉眼)が強い力で迫ってくる。イメージではなく、肉体が迫りはじめる。
この部分がもしかすると藤井の一番いい部分なのかもしれない。だが、私には書き出しの「連」と微妙に文体が違っているように感じる。
次の連によって、その感じがいっそう強くなる。
針のついた布を
向かい合わせに羽織っているので
蝶番の扉の、
垂れた背中を撫でて
この連の「蝶番の扉の、/垂れた背中を撫でて」は「本を綴じる紐」に通じる文体である(と私は感じる)。
「水」「本」「紐」「鋏」「蝶番」に感じる尺度(距離感)と「電子音に/きずついた鳥」との距離感が、私の中で一致しない。間に「指紋を剥いてしまう」という肉体があるだけに、不思議な「先祖返り」のようなものも感じて、ちょっと困惑する。
どちらを信じて読めばいいのかなあ、と悩んでしまうのである。
悩みながら読むことばというものがあってもいい。そういうことは「頭」では理解できるけれど、実際に「悩み」に直面すると、私は困惑する。私の読み方は保守的なのかもしれない。