瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社、2007年07月04日発行)
文体がとても魅力的である。瀬崎の視点は安易に対象と一体にならない。しかし、その対象との距離(尺度)は非常にしっかりと「一定の距離」を保っている。突然近づいたり、離れたりしない。その結果、何が起きるか。瀬崎に、ではなく、瀬崎が描いている対象そのものになったような気持ちになる。ことばの「距離」が一定であるために、読んでいて対象そのものになってしまった感じがするのだ。言い換えると、瀬崎が描いている対象から瀬崎をみつめているような気持ちになる。瀬崎という人間が見えたとしても、それはあくまで対象になってしまった私が対象の視点で瀬崎をみつめているという感じなのだ。
巻頭の「いきがい」。
蛇になった気持ち、目玉だけの蛇になった気持ちになるのは私だけだろうか。
これはとても不思議な快感である。私は人間であるが、私の目玉の背後にも視神経が伸びているだろう。ずるずるずると、どこまでも。どこまでも、というのはたぶん「脳」が時間を(過去を)ふくめてつづいているからだ。見たくないもの、見たいもの、そういうさまざまなものが視神経の長さ(蛇の身体の長さ)そのままに、ずるずるずるずると背後につづいていて、今見える世界は、そのずるずるとした過去をふくめた時間を通って脳へたどりつきひとつの世界を描くのだ。
瀬崎がもしも蛇になってしまったら、そこにはたぶん「抒情」(センチメンタル)が入り込む。蛇にならずに、あくまで一定の「距離」を保ち描写することで、抒情(センチメンタル)を排除している。そこから「批評」が生まれる。そしてその「批評」は簡単には「世界」を批判したり、「世界」に共感したりというものとは違う。「世界」を批判したり、「世界」に共感するかわりに、「どうだ、お前に、いったい何が見える?」と読者に問いかけるという「批評」である。自分で「世界」を見てみろ、という強烈な批評である。
痛烈である。
ページをめくると次の詩が待っているのだが、そのページをめくるのが怖い。怖いから、そして、はやくめくりたい。
文体がとても魅力的である。瀬崎の視点は安易に対象と一体にならない。しかし、その対象との距離(尺度)は非常にしっかりと「一定の距離」を保っている。突然近づいたり、離れたりしない。その結果、何が起きるか。瀬崎に、ではなく、瀬崎が描いている対象そのものになったような気持ちになる。ことばの「距離」が一定であるために、読んでいて対象そのものになってしまった感じがするのだ。言い換えると、瀬崎が描いている対象から瀬崎をみつめているような気持ちになる。瀬崎という人間が見えたとしても、それはあくまで対象になってしまった私が対象の視点で瀬崎をみつめているという感じなのだ。
巻頭の「いきがい」。
森の中を歩いていると 蛇の目玉があった
蛇の身体はどこにもなくて 目玉だけが枯れ葉のあいだ
に見えているのだ
目玉をひろいあげようとすると 神経のようなものが目
玉の背後からのびている
あ これは蛇の視神経だな と思い さらに引っ張ると
神経はずるずるとどこまでも伸びて出てくる
おれは目玉を持ったまま森の中を歩き出す
神経はそれでもずるずると伸びてくる
蛇の目には目蓋はない だから 蛇の目はいつも見開か
れたままだ
蛇は 見たくないものを常に見つづける運命をになって
いたいのだ
おれは蛇の目玉を頭上に高くかかげ 蛇に話しかける
どうが 見えるか
見えるもの それがお前の世界のすべてだぞ
蛇になった気持ち、目玉だけの蛇になった気持ちになるのは私だけだろうか。
これはとても不思議な快感である。私は人間であるが、私の目玉の背後にも視神経が伸びているだろう。ずるずるずると、どこまでも。どこまでも、というのはたぶん「脳」が時間を(過去を)ふくめてつづいているからだ。見たくないもの、見たいもの、そういうさまざまなものが視神経の長さ(蛇の身体の長さ)そのままに、ずるずるずるずると背後につづいていて、今見える世界は、そのずるずるとした過去をふくめた時間を通って脳へたどりつきひとつの世界を描くのだ。
瀬崎がもしも蛇になってしまったら、そこにはたぶん「抒情」(センチメンタル)が入り込む。蛇にならずに、あくまで一定の「距離」を保ち描写することで、抒情(センチメンタル)を排除している。そこから「批評」が生まれる。そしてその「批評」は簡単には「世界」を批判したり、「世界」に共感したりというものとは違う。「世界」を批判したり、「世界」に共感するかわりに、「どうだ、お前に、いったい何が見える?」と読者に問いかけるという「批評」である。自分で「世界」を見てみろ、という強烈な批評である。
痛烈である。
ページをめくると次の詩が待っているのだが、そのページをめくるのが怖い。怖いから、そして、はやくめくりたい。