詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐『雨降り舞踏団』(1)

2007-07-19 23:15:32 | 詩集
 瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社、2007年07月04日発行)
 文体がとても魅力的である。瀬崎の視点は安易に対象と一体にならない。しかし、その対象との距離(尺度)は非常にしっかりと「一定の距離」を保っている。突然近づいたり、離れたりしない。その結果、何が起きるか。瀬崎に、ではなく、瀬崎が描いている対象そのものになったような気持ちになる。ことばの「距離」が一定であるために、読んでいて対象そのものになってしまった感じがするのだ。言い換えると、瀬崎が描いている対象から瀬崎をみつめているような気持ちになる。瀬崎という人間が見えたとしても、それはあくまで対象になってしまった私が対象の視点で瀬崎をみつめているという感じなのだ。
 巻頭の「いきがい」。

森の中を歩いていると 蛇の目玉があった
蛇の身体はどこにもなくて 目玉だけが枯れ葉のあいだ
に見えているのだ
目玉をひろいあげようとすると 神経のようなものが目
玉の背後からのびている
あ これは蛇の視神経だな と思い さらに引っ張ると
神経はずるずるとどこまでも伸びて出てくる
おれは目玉を持ったまま森の中を歩き出す
神経はそれでもずるずると伸びてくる
蛇の目には目蓋はない だから 蛇の目はいつも見開か
れたままだ
蛇は 見たくないものを常に見つづける運命をになって
いたいのだ
おれは蛇の目玉を頭上に高くかかげ 蛇に話しかける
どうが 見えるか
見えるもの それがお前の世界のすべてだぞ

 蛇になった気持ち、目玉だけの蛇になった気持ちになるのは私だけだろうか。
 
 これはとても不思議な快感である。私は人間であるが、私の目玉の背後にも視神経が伸びているだろう。ずるずるずると、どこまでも。どこまでも、というのはたぶん「脳」が時間を(過去を)ふくめてつづいているからだ。見たくないもの、見たいもの、そういうさまざまなものが視神経の長さ(蛇の身体の長さ)そのままに、ずるずるずるずると背後につづいていて、今見える世界は、そのずるずるとした過去をふくめた時間を通って脳へたどりつきひとつの世界を描くのだ。

 瀬崎がもしも蛇になってしまったら、そこにはたぶん「抒情」(センチメンタル)が入り込む。蛇にならずに、あくまで一定の「距離」を保ち描写することで、抒情(センチメンタル)を排除している。そこから「批評」が生まれる。そしてその「批評」は簡単には「世界」を批判したり、「世界」に共感したりというものとは違う。「世界」を批判したり、「世界」に共感するかわりに、「どうだ、お前に、いったい何が見える?」と読者に問いかけるという「批評」である。自分で「世界」を見てみろ、という強烈な批評である。

 痛烈である。

 ページをめくると次の詩が待っているのだが、そのページをめくるのが怖い。怖いから、そして、はやくめくりたい。


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三木聡監督「図鑑に載っていない虫」

2007-07-19 00:42:28 | 映画
監督 三木聡 出演 伊勢谷友介、松尾スズキ、菊地凛子

 芝居が映画を越境する--そういう映画が増えた。メディアとしては映画なのだが、やっていることは芝居である。「舞妓Haaaaan!!!」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」もそうである。3本の中では、この「図鑑に載っていない虫」が一番おもしろい。全編、芝居、芝居、芝居のリズムで突っ走る。そして芝居の欠点、こまかい表情や細部が見えないという部分は「映画」で突き破ってしまうのである。
 芝居のリズムは冒頭の「黒い本」の編集室の描写からいきなり疾走する。女編集長がレール(?)の上の椅子ですいすい移動するシーン。そのせりふのリズム。「死にモドキ」を探し出して「臨死体験」を書けという無理な注文。うさんくさい世界をことばで出現させる力と役者の肉体の見せ方。(女編集長の、口の周りの青い痣の見せ方--その過去の描き方。)でたらめ(?)も役者の肉体を通すとほんとうになるという芝居特有のスピード感。
 あるいは片桐ハイリがSMクラブの廃品を処分するシーン。「SMもやめてしまえばただの不燃ごみ」(だったかな? 燃やせるごみだったかな?)と3回くりかえして言う。それに対して「何回も言うなよ」と突っ込まれると、逆に「何か言いたいことがあるんじゃないの。はやく言ったら?」と突っ込まれるシーン。その他、もろもろ。せりふの切り返し、ギャグの乱発のリズム。
 芝居では無理な描写というのは、たとえば瞬間接着剤でコンタクトレンズをつくる、一重の目を二重にして「かわいく」見せる、ゲロを燃やしてお好み焼きにするなどである。(いずれも松尾スズキがからんでいるところがおもしろい。)あるいはリストカットマニアの菊地凛子の手首のザラザラでわさびを下ろして見せるシーン。
 全部が全部、日常を超えて、「芝居小屋」のなかのできごと、嘘を共有しにくる観客だけを相手に嘘はここまで肉体で表現できるという芝居のリズム、テンポで突き進む。
 そして。
 そういういわばでたらめの果てに、でたらめを通り越した現実が浮かび上がる。
 「臨死体験」のリポートなんてうさんくさい。そんな本なんかうさんくさい。でも、そのうさんくささの底には、いま、ここで生きている人間の欲望がある。生きているんだから、何かしなくてはならない。世の中の役に立つというような立派なことだけでは生きていけない。嘘も、ごまかしも、だらしないことも全部含めて存在して、生きていることになる。でたらめって楽しい、ふざけているって楽しい。でたらめができる、ふざけることができる、というのは楽しい。
 生きるというのは、結局は楽しくやること。
 などという「結論」は、まあ、とってつけたようなものである。
 私が書いているこの文の「そして。」以後は無視してください。そして、ただただ、芝居のリズムが映画を活性化させていることだけを楽しんでください。日本映画は、最近、とてもおもしろい。その楽しさを堪能できる作品だ。
 ただし。
 この映画は「地方都市」で見るよりも「東京」で見るべき映画だ。とてもブラックな映画で、あまりのブラックさに笑うしかないのだが、ブラックなものに対する笑いは地方では少ない。映画館でひとりだけ声を張り上げて笑うと(それが私だが)、ちょっと浮いてしまう。観客が何人も何人も声を上げて笑ってこそ楽しくなる映画だ。
 (私は水曜日、レディースデイに見たせいか、観客に「おばさん」が多く、ほとんどブラックなシーンに無言である。笑わない。こういう作品はあまり見たことがないのだろう。笑い声がないとおもしろみが共有されない。もう一度、どこか、笑いがたえない映画館で見てみたい作品である。)
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