瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社、2007年07月04日発行)
「蛇の背骨」。また、蛇、なのである。そして、その蛇はやはり魅力的なのだ。蛇とともにあらわれる世界が魅力的なのである。それは蛇ぬきにしては存在しない世界であり、言い換えれば、蛇とつながることによって、共に存在する世界なのである。
「つながる」「共に」。その2語に瀬崎の「思想」を感じる。何かを描写とするということはつながることだ。何かと「共に」するもの、共有するものを発見することだ。「つながる」「共に」は「必要」と言い換えることもできる。
この「蛇」を「ことば」と置き換えてみるとどうなるだろうか。私は、ふいに、「蛇」を「ことば」と置き換えたい欲望にかられる。
ここに書かれている「蛇」は「ことば」である。
瀬崎が描いた「蛇」をとおして、私は「ことば」の欲望を見る。この欲望は瀬崎のものか、瀬崎によって触発された私のものか、それとも私がかってに瀬崎におしつけようとしているものなのか。区別がつかない。「つながって」「共に」ある感じがする。瀬崎のことばにつながりながら、そのことばを共に持つことで、そのつづきを考えたいという私自身の欲望があり、その欲望は、瀬崎のことばを「必要」としている。
「蛇」は、わたしにとっては「ことば」そのものである。
瀬崎にとっては、どうだろうか。「蛇」は「ことば」ではないのだろうか。
ことばで対象を(蛇を)描く。蛇とことばがつながり、その蛇が世界とつながる。ことば抜きにして世界は存在しない。世界とつながることはできない。瀬崎は(あるいは人間はといってもいい)、ことば抜きにしては、世界と共に存在することはできない。
そのとき「ことば」は、どんな形をとることができるだろうか。
世間で流通している「ことば」そのままでも、あるいはかまわないかもしれない。多くの場合、そうした「流通することば」の方が便利である。しかし、自分がいま感じていること、考えていることを「ことば」にしようとすれば、どうしても「流通することば」では間に合わなくなる。そういう「ことば」では、いま自分が感じている「世界」がうまく描写できないのだ。今時分が感じている「世界」を描写するためには、「ことば」は「流通することば」の形を捨てなければならない。
瀬崎のことばは対象をつかみとることを放棄している、というのは正確な言い方ではない。瀬崎のことばは「流通している世界」をつかみとることを放棄している。そして「流通している世界」ではなく、瀬崎が感じる「世界」に直に感じるために「流通することば」を放棄したのである。
「流通することば」を放棄し、そのかわりにことば全体、文体そのもので対象にからみつく。つまり、どこにもない形、文体を目指す。
「流通することば」を捨てたのだから、瀬崎の文体は普通の人の文体とは微妙に違っている。
瀬崎は、ことば全体をきしませて、対象と接触し、対象の体温を求める。対象の鼓動を求める。--対象に直にふれることのできる文体を探して、ことば全体をくねらせる。
瀬崎の文体は対象の表面をなぞるのではなく、対象の内部にあるものを文体全体で受け止める。そのために「流通している文体」(日常の散文体、会話体)を放棄する。そして詩に「なる」。(流通している文体を放棄した独自の文体が「詩」である。)
瀬崎がたとえば蛇を描写するとき、瀬崎が蛇になるのではない。ことばが蛇になるのではない。瀬崎が「詩」になる、瀬崎のことばが「詩」に「なる」。
その結果、瀬崎のことばに「つながる」もの、瀬崎のことばと「共に」あるもの、対象が「詩」になる。「詩」になった対象(たとえばこの作品では「蛇」だが)、その対象の方が、今では瀬崎のことばを「必要」としている。
ことばの運動が逆転することで、円をつくる。あるいはそれは球と言った方がいいかもしれない。完全な形--宇宙をつくる。
こうした文体を完成させるまでに瀬崎がどのような作品を書いてきたのか、私は不勉強なので知らないが、ずいぶん多くの作品を書いてきたのだろうと推測できる。文体の確かさ、ことばの動きに無理がない。何よりも対象との距離のとり方、ことばの「尺度」に揺れがない。
「蛇の背骨」。また、蛇、なのである。そして、その蛇はやはり魅力的なのだ。蛇とともにあらわれる世界が魅力的なのである。それは蛇ぬきにしては存在しない世界であり、言い換えれば、蛇とつながることによって、共に存在する世界なのである。
かつて恐ろしいものの一部として メデューサの髪とな
った蛇よ そのとき おまえたちの身体はどんなふうに
つながっていたのだろう 排泄孔はだれと共にしていた
のだろう 生殖器は満たされていたのだろうか
「つながる」「共に」。その2語に瀬崎の「思想」を感じる。何かを描写とするということはつながることだ。何かと「共に」するもの、共有するものを発見することだ。「つながる」「共に」は「必要」と言い換えることもできる。
蛇の身体は冷たい 内臓までが冷たい 自らの内に発熱
するものを持たないために 他人に暖められる必要があ
るのだ いつも誰かを必要としている
この「蛇」を「ことば」と置き換えてみるとどうなるだろうか。私は、ふいに、「蛇」を「ことば」と置き換えたい欲望にかられる。
ここに書かれている「蛇」は「ことば」である。
瀬崎が描いた「蛇」をとおして、私は「ことば」の欲望を見る。この欲望は瀬崎のものか、瀬崎によって触発された私のものか、それとも私がかってに瀬崎におしつけようとしているものなのか。区別がつかない。「つながって」「共に」ある感じがする。瀬崎のことばにつながりながら、そのことばを共に持つことで、そのつづきを考えたいという私自身の欲望があり、その欲望は、瀬崎のことばを「必要」としている。
「蛇」は、わたしにとっては「ことば」そのものである。
瀬崎にとっては、どうだろうか。「蛇」は「ことば」ではないのだろうか。
ことばで対象を(蛇を)描く。蛇とことばがつながり、その蛇が世界とつながる。ことば抜きにして世界は存在しない。世界とつながることはできない。瀬崎は(あるいは人間はといってもいい)、ことば抜きにしては、世界と共に存在することはできない。
そのとき「ことば」は、どんな形をとることができるだろうか。
世間で流通している「ことば」そのままでも、あるいはかまわないかもしれない。多くの場合、そうした「流通することば」の方が便利である。しかし、自分がいま感じていること、考えていることを「ことば」にしようとすれば、どうしても「流通することば」では間に合わなくなる。そういう「ことば」では、いま自分が感じている「世界」がうまく描写できないのだ。今時分が感じている「世界」を描写するためには、「ことば」は「流通することば」の形を捨てなければならない。
結局のところ 蛇の形はものをつかみ取ることを放棄し
た形といえる かわりに蛇が求めたのは 身体全体で絡
みつくことであった 身体をくねらせるとき 骨は妙な
形でかたむきあう そして きしむような音を立てる
蛇は 小手先だけではなく 身体の全部を投げ出して相
手と接触しようとする
このぞっとするような濡れた冷たさをやわらげようとし
て 蛇は 相手の体温を求める 身体全体でからみつく
と 相手の鼓動は 蛇の内臓にまで響いてくる それこ
そが蛇が手足を失った意味だったのだ
瀬崎のことばは対象をつかみとることを放棄している、というのは正確な言い方ではない。瀬崎のことばは「流通している世界」をつかみとることを放棄している。そして「流通している世界」ではなく、瀬崎が感じる「世界」に直に感じるために「流通することば」を放棄したのである。
「流通することば」を放棄し、そのかわりにことば全体、文体そのもので対象にからみつく。つまり、どこにもない形、文体を目指す。
「流通することば」を捨てたのだから、瀬崎の文体は普通の人の文体とは微妙に違っている。
瀬崎は、ことば全体をきしませて、対象と接触し、対象の体温を求める。対象の鼓動を求める。--対象に直にふれることのできる文体を探して、ことば全体をくねらせる。
瀬崎の文体は対象の表面をなぞるのではなく、対象の内部にあるものを文体全体で受け止める。そのために「流通している文体」(日常の散文体、会話体)を放棄する。そして詩に「なる」。(流通している文体を放棄した独自の文体が「詩」である。)
瀬崎がたとえば蛇を描写するとき、瀬崎が蛇になるのではない。ことばが蛇になるのではない。瀬崎が「詩」になる、瀬崎のことばが「詩」に「なる」。
その結果、瀬崎のことばに「つながる」もの、瀬崎のことばと「共に」あるもの、対象が「詩」になる。「詩」になった対象(たとえばこの作品では「蛇」だが)、その対象の方が、今では瀬崎のことばを「必要」としている。
ことばの運動が逆転することで、円をつくる。あるいはそれは球と言った方がいいかもしれない。完全な形--宇宙をつくる。
こうした文体を完成させるまでに瀬崎がどのような作品を書いてきたのか、私は不勉強なので知らないが、ずいぶん多くの作品を書いてきたのだろうと推測できる。文体の確かさ、ことばの動きに無理がない。何よりも対象との距離のとり方、ことばの「尺度」に揺れがない。