詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ54)

2007-07-14 21:41:45 | 詩集

 入沢康夫「詩と私」(思潮社「現代詩文庫 続・入沢康夫詩集」収録)。
 短い文章だが、ここに入沢が詩について考えていることのエッセンスが書かれている。

 詩について、私にはかねてから一つの思い込みがある。それを、以前には<詩は表現ではない>という、いささかならず奇異な言い方で表明したことがあったが、その真意は、<詩の作品は、作者があらかじめ抱いたしかじかの感懐や印象を、読者に伝達するための手段ではない>ということで、これを逆の方向から言うならば、<読者は、作品を通して、作者の感懐や印象を受けとるのではない>ということになる。
 むしろ詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。

 もちろん、入沢がこう書いているからといって、それがそのまま入沢の「思想」であると信じる必要はないかもしれない。しかし、私はここには入沢の本当に思っていること、考え続けていることが書かれていると信じる。(これまで「メモ」で書いてきたことは、この入沢のことばと矛盾しない。むしろ補いあうからだ。)

詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。

 これは、「誤読」が生じる「原因」である。読者は「作者が言いたいこと」よりも「自分が読みたいこと」を優先する。その結果、「作者の言いたいこと」とは違ったことを読み取るという「誤読」が生まれる。
 --もちろん、これも、私が「読み取りたい」と思っていることを読み取っただけのことであり、「誤読」の一つかもしれない。

 入沢の本当に言いたいことは、そのあとに書かれていることがらかもしれない。

そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真実」に達しているのでなければならない。

 この「普遍的な「真実」」は、たとえば「あの花は赤い」とか「花は美しい」といった「真実」とは違う。「A+B=C」というような「真実」とも違う。そういう「定まった状態にあるもの」とは違う。なぜなら、定まった状態にあるもの(こと)であるなら、それが「作者」と「読者」で違っていては「真実」とはなり得ない。作者が正しいのか、読者が正しいのか、二者択一のなかで、どちらかが「虚偽」になる。
 「それぞれ」。
 これが、入沢の「キーワード」である。
 作者にも「真実」があり、読者にも「真実」があり、そして、それは「それぞれ」普遍的な「真実」に到達している。--ここに書かれていることは「真実は一つである」というごく一般的な定義に反する。矛盾である。
 この「矛盾」を解消する方法がひとつある。(もっとあるかもしれないが、私が考えているのは「ひとつ」である。)
 入沢が「真実」と読んでいるものは、ある一定の状態(もの、こと、名詞)ではない。あることへ向けて動くことばの運動である。ことばが、ことばをかき分けながら何かを「発見する」。その「発見する」という動き(動詞)が「真実」なのである。
 「発見」の方法は一つではない。幾つでもある。そして、その「それぞれ」が皆、「真実」なのである。

 入沢は詩の「構造」についても何度か書いている。「構造」とは、たとえば建築物の柱があって、壁があって、床があって、階段があって、というようなことがらではない。「構造」によく似たことばに「構成」があるが、「構成」とも違う。
 「構造」は固定化しているが、入沢の言いたいことは「固定化した何か」ではない。動き続ける何か、動きをうながす何かである。動いたあとには「軌跡」が残る。その「軌跡」はたとえば階段をおりて地下室の扉を開けて、その壁を破ると宝石があるという形をとると、その「軌跡」そのもののありようとして「階段」「地下室」「壁」というような「構造」を残してしまうので、勘違いを引き起こしてしまうのだ。「発見」の「軌跡」を語るにはどうしても「建物の構造」を描かないことには語れない。だから「構造」を語ってしまうのだが、それは「副産物」なのである。入沢が「構造」ということばで浮かびあがらせたかったのは、「発見する」という行為、行動そのものである。

 「それぞれ」と通い合う「キーワード」が「詩と私」のなかにはもうひとつある。最初に引用した部分の、

これを逆の方向から言うと、

 「発見」の道筋はひとつではない。「それぞれ」にある。「逆の方向」からあることがらにたどりつくことも可能なのである。
 「方向」とここでも入沢は「名詞」をつかって説明しているが、そこに読み取るべきものは「名詞」ではなく、「名詞」に隠れている「動詞」なのである。「名詞」を「動詞」として解きほぐす--そのとき見えてくるものが入沢の「思想」である。「逆の方向」とは「逆から動かしてみると」ということである。「逆からたどってみると」ということである。

 「誤読」ということばも「名詞」である。これを「動詞」として解きほぐすとき、入沢がやっている試みが見えてくる。

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大鐘敦子『森の囁き』

2007-07-14 14:54:27 | 詩集
 大鐘敦子『森の囁き』(思潮社、2007年06月30日発行)
 「漢字」で思考するのだろうか。「森の囁き」のなかほど。

限り無い出会いを見出し
限りある時を共有し
夢の中の邂逅を交感し
また眠りに就く

 「漢字」が多い。そして、この「漢字」が多いという印象は、不思議なことに、そこに「漢字」以外のものがまじるからだ。たとえば「夢」。たとえば「眠り」。もちろんそれも「漢字」で表記はされているが、「共有」とか「邂逅」「交感」という「漢字」とは違う。違うのだけれど、「共有」とか「邂逅」「交感」とは違うがゆえに、それらに汚染されて本来の美しさを失い、そのうしなわれた美しさが、また逆に「漢字」そのものの印象を強くする。
 「漢字熟語」が多い。そしてその漢字熟語にひっぱられる形で「漢字」そのものが多いという印象になるのかもしれない。
 いっそうのこと「無限の遭遇を発見し/有限の時間を共有し/夢幻の中原の邂逅を交感し/再度睡眠に就く」とでも書けば「漢字」が多いという印象は逆に消えたかもしれない。「夢」や「眠り」が「漢字」に汚染されているという印象とは違ってきたかもしれない。
 「漢字」が多い--という印象は、実は実際に漢字が多いからではなく、漢字と漢字以外のもののバランスが不自然に感じられるからである。それが「漢字」に汚染されているという印象を呼び起こすのだろう。この不自然というのは、もちろん私の印象であって、ほかの読者はそういうふうには感じないかもしれないが。

 言い換えると……。
 「漢字」をつかうときの対象(世界)との距離のとり方と、ひらがなをつかうときの対象(世界)との距離のとり方が違っている、「尺度」が違っているという印象がする。
 「漢字」。イメージが結晶化した世界、完結した世界(宇宙といった方がいいかもしれない)を大鐘は見ることができるのだろう。結晶のように完璧な美の世界が大鐘には見えるのだろう。そして、その完璧な宇宙へむけてことばを動かしていく。そういうスタイルの詩だ。
 たぶん大鐘には、大鐘の見ている宇宙が完璧だから、それを再現する詩も完璧である、という思いがあるのだろう。
 そうした思いはとても大切である。
 だが、大鐘に見える宇宙が完璧だからといって、それにあわせて完璧な「漢字」を持ち出してきても(たぶん大鐘の引き出しには「漢字」がいっぱい整理整頓されているのだろう)、完璧な宇宙というものは再現されるわけではない。
 「結晶」を持ち出して宇宙を飾るのではなく、宇宙の混沌に投げこむ一個の汚れた石が必要なのだ。大鐘が一個の汚れた石を宇宙に放り込めば、宇宙で動いているさまざまなものがそのまわりに集まってきて、いままでなかったものとして結晶する--宇宙というものはそういうものである。生成といっしょに存在するものである。詩とは、そういう生成の現場を揺り動かすことばのことである。そういうところでは、はじめから結晶してしまっている「漢字」は邪魔である。「漢字」と「漢字」がぶつかりあい、それは一瞬、きらきらと輝いて見えるのではあるけれど、新しい何かが誕生する美しさではない。また滅んでいく美しさ、破壊されていく美しさでもない。

 大鐘にとって必要なことは、引き出しのことばを全部捨ててしまうことだ。大鐘が美しいと思うことばを全部捨てて、そのあとにのこったことばで大鐘の「尺度」をつくりあげることだ。
 大鐘の作品の一部をなぞったふうに言えば、

漢字によって失った過去と
漢字によって掴んだ現在に訣別して

 大鐘自身の肉体の、その細胞の、そのうごめきが、「頭脳」(頭蓋骨)からほとばしり出るようにしむけなければならない。
 詩は、大鐘の書いていることばとは反対側にある、と私は思う。

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