詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金宣佑(キム・ソンウ)「墓が赤ん坊をたちを育てる」

2007-07-06 14:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)
金宣佑(キム・ソンウ)「墓が赤ん坊をたちを育てる」(韓成禮訳)(「something 」5、2007年06月25日発行)
 「墓」は子宮のことだろうか。

 生まれたばかりの赤ん坊たちの腹の中を考えてみて。小さな庭のような、赤
いダリア、ことんことんと湯気をあげながら草が薄緑の道を作る。黄色い朱色
の松葉牡丹、里芋の葉の上でふざける血球たち、赤くて白い水玉。
水玉は丸い墓だ。私たちは誰でも皆、墓という家だ。温かい私の胸の二葉のよ
うにすがりついて泣く幼い恋人、まだ十分に熟していない私の花のある場所に
そっと痛みが通り過ぎ、私は墓を開いて乳首を噛ませてあげたが

 どう泣き止んだのか分からない、あの日、私の恋人は

 村の入り口の外に鳩を埋めてやり、私が背中に負ぶって来た五歳の弟になっ
て私に言った。ありがとう、いつか私もお母さんになってあげる。香ばしい香
りがその子の庭に漂い始め、ぐるぐる、私の墓で本当に乳が回るようだった。

 田原の「墓」(2007年07月04日の日記参照)、ペドロ・アルモドバルの「ボルベール」(2007年07月05日の日記参照)とふとつなげて読みたくなった。
 「墓」と「子宮」であるだけではなく、宇宙そのものであり、そこを通って人間が育って行く。宇宙とは、そしてここでは「女」と同じ意味である。すべての存在が女と出会い、女を通って成長していく。女をとおるとき、男は赤ん坊である。しかも乳飲み子であるというわけではなく、何歳にでもなる。そればかりか、女にもなる。そんなふうに女からは見える、ということを書いているのだと思った。
 田原は「墓」が女であるとは書かなかったが「乳房」にたとえていた。そこに、悲しみと記憶がとどまると書いていた。その悲しみ、記憶を尋ねてひとはやってくる。悲しみ、記憶と交流してひとは成長する。これは金が書いている「墓=子宮」を経由することで「赤ん坊」(すべての幼きもの)が成長するという姿に似ている。
 アルモドバルはすべての女が「母」になると書いた。「子宮」とは「母」のあかしである。そこで子どもは育ち、そこで「母」を無意識の内に学ぶ。「母」になることを身につける。「母」とは年齢差ではない。「母-娘」という関係のなかに「母」が存在するのではない。誰かが誰かを温かく抱き締め、その温かさのなかで誰かが育つなら、そのときその人が年下であっても、そして極端に言えば男であっても「母」なのだ。(アルモドバルは男であるが、そんなふうにしてあらゆる女性を讃美することで、女たちの「母」になっている。)
 金の作品は、そうしたことを、田原、アルモドバルとは違って、女の肉体そのものをとおして描いている。だからその分だけ説得力が増している。金の作品のあとでなら、田原の作品、アルモドバルの作品は、もっと輝いて見える。
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入沢康夫と「誤読」(メモ50)

2007-07-06 11:39:40 | 詩集

 入沢康夫『唄--遠い冬の』(書肆山田、1997年07月10日発行)。
 「三保の鴎」。(谷内注・原文の「鴎」は正字体)『入沢康夫〈詩〉集成 上巻』に「序詩」として掲げられている作品である。『唄』にも再録されている。

虚空にひらりひらりと
 舞ふものがあつて
それが千年もの昔の
春の女神の いたいけな
 笑(ゑ)まひとも
また 見るはしから忘れ去られていく
 夢の 傷口かとも思はれる

つながつてゐるのだ
どこかで--

あの
青い雲と雲とが
 せはしく行き交ふあたりで--

 「つながつてゐる」。この感覚が「誤読」の基本かもしれない。私たちは、私の考えていること、感じていることを、たとえば入沢のことばのなかに感じる。具体的に、明確には言えないけれど、「どこかで」「つながつてゐる」と。
 
 この詩を再び読んだとき、私が真っ先に思いだしたのは「上巻」に収録されている作品ではなく、『漂ふ舟』の最後に掲載されていた「難破した男のララバイ」である。

こんなにも 荒れてゐるのに
こんなにも まつ暗なのに
私の
もう祈ることも忘れ果てた視界を
白く
あまりにも白く
かすめた鴎よ
本当に
おまへは鴎なのだらうか
    (谷内注・原文の「鴎」は正字体)

 ふたつの作品に「鴎」が登場するから混同した--というのではないと思う。ふたつの作品に書かれていることは同じなのだ。
 「本当に/おまへは鴎なのだらうか」と問うとき、入沢は「鴎」以外のものを感じている。「鴎」が別の存在と「つながつてゐる」と感じている。感じているとしか言えないのは、それが視界を「かすめた」だけのものだからである。はっきりと見たわけではない。そしてはっきりとは見えなかったからこそ、「つながつてゐる」と「誤読」することもできる。
 「誤読」とは何かを探すことなのだ。
 そして探しているものは、いつもどこか遠くにあるように感じられるけれど、ほんとうは自分自身のなか、読者自身のなかにある。同時に、作者自身のなかにある。
 「探す」という行為を通じて、作者と読者が重なり合う。
 --これは、「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」とも重なり合う世界である。

 『唄』には「かつて座亜謙什と名乗つた人への最後のエスキス」という作品もある。

つまり
ここには《私》も《あなた》ももはやない

 書き出しの2行。「もはやいない」ではなく「もはやない」。この「ない」は「区別」がないということである。
 その2連目。

やはや
《私》は《あなた》のことを忘れかけてゐるし
《あなた》にしてみれば
もちろん はなから《私》のことは知らない
二人を(いや三人 いや十人 いや百人を
繋ぎとめてゐた(さう信じられた)のは
あれは 緑の《楽園》へのあこがれであつたらうか
錆びた鋼の色をした《地獄》だつたらうか
そもそも それさへもが
定かだつたとは言ひ難いのだ

 「区別」がない。それを「繋ぎとめてゐた」と「つなぐ」というこことばで言い直している。さらに、その「つなぐ」ものが「楽園」か「地獄」か定かではない、と。「楽園」と「地獄」は正反対のものである。しかし「つなぐ」という運動そのものにしてみれば、それは「つなぐ」という運動をするということにおいて同一である。違う存在が同じ働きをする。そのとき「誤読」が起きるのだとも言える。
 「誤読」という運動が「つなぐ」ということばと同時に書かれている--そのことが、重要なのだ。

そもそも それさへもが
定かだつたとは言ひ難いのだ
けれども
《私》もなく《あなた》もないとしてみても
ここに 今
何ものかが うごめき 移動して行く
鳥影も けものの姿もない この土地で
あちこちに落ちて散らばり
ともすれば見出される
肉質の時間の破片が(そしてその臭気が)
その何ものかを導き 動かしてゐるのだ

だから
一つのことだけは変つてゐない
一つのことだけは!

 「変つてゐない」のは「誤読」する精神である。「誤読」する精神が「この土地」を歩けば、そこに落ちているものは(肉質の時間の断片は)、いきいきとした時間に変わる。ことばは、いつもそういう「誤読」を待っているということだろう。
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