金宣佑(キム・ソンウ)「墓が赤ん坊をたちを育てる」(韓成禮訳)(「something 」5、2007年06月25日発行)
「墓」は子宮のことだろうか。
田原の「墓」(2007年07月04日の日記参照)、ペドロ・アルモドバルの「ボルベール」(2007年07月05日の日記参照)とふとつなげて読みたくなった。
「墓」と「子宮」であるだけではなく、宇宙そのものであり、そこを通って人間が育って行く。宇宙とは、そしてここでは「女」と同じ意味である。すべての存在が女と出会い、女を通って成長していく。女をとおるとき、男は赤ん坊である。しかも乳飲み子であるというわけではなく、何歳にでもなる。そればかりか、女にもなる。そんなふうに女からは見える、ということを書いているのだと思った。
田原は「墓」が女であるとは書かなかったが「乳房」にたとえていた。そこに、悲しみと記憶がとどまると書いていた。その悲しみ、記憶を尋ねてひとはやってくる。悲しみ、記憶と交流してひとは成長する。これは金が書いている「墓=子宮」を経由することで「赤ん坊」(すべての幼きもの)が成長するという姿に似ている。
アルモドバルはすべての女が「母」になると書いた。「子宮」とは「母」のあかしである。そこで子どもは育ち、そこで「母」を無意識の内に学ぶ。「母」になることを身につける。「母」とは年齢差ではない。「母-娘」という関係のなかに「母」が存在するのではない。誰かが誰かを温かく抱き締め、その温かさのなかで誰かが育つなら、そのときその人が年下であっても、そして極端に言えば男であっても「母」なのだ。(アルモドバルは男であるが、そんなふうにしてあらゆる女性を讃美することで、女たちの「母」になっている。)
金の作品は、そうしたことを、田原、アルモドバルとは違って、女の肉体そのものをとおして描いている。だからその分だけ説得力が増している。金の作品のあとでなら、田原の作品、アルモドバルの作品は、もっと輝いて見える。
「墓」は子宮のことだろうか。
生まれたばかりの赤ん坊たちの腹の中を考えてみて。小さな庭のような、赤
いダリア、ことんことんと湯気をあげながら草が薄緑の道を作る。黄色い朱色
の松葉牡丹、里芋の葉の上でふざける血球たち、赤くて白い水玉。
水玉は丸い墓だ。私たちは誰でも皆、墓という家だ。温かい私の胸の二葉のよ
うにすがりついて泣く幼い恋人、まだ十分に熟していない私の花のある場所に
そっと痛みが通り過ぎ、私は墓を開いて乳首を噛ませてあげたが
どう泣き止んだのか分からない、あの日、私の恋人は
村の入り口の外に鳩を埋めてやり、私が背中に負ぶって来た五歳の弟になっ
て私に言った。ありがとう、いつか私もお母さんになってあげる。香ばしい香
りがその子の庭に漂い始め、ぐるぐる、私の墓で本当に乳が回るようだった。
田原の「墓」(2007年07月04日の日記参照)、ペドロ・アルモドバルの「ボルベール」(2007年07月05日の日記参照)とふとつなげて読みたくなった。
「墓」と「子宮」であるだけではなく、宇宙そのものであり、そこを通って人間が育って行く。宇宙とは、そしてここでは「女」と同じ意味である。すべての存在が女と出会い、女を通って成長していく。女をとおるとき、男は赤ん坊である。しかも乳飲み子であるというわけではなく、何歳にでもなる。そればかりか、女にもなる。そんなふうに女からは見える、ということを書いているのだと思った。
田原は「墓」が女であるとは書かなかったが「乳房」にたとえていた。そこに、悲しみと記憶がとどまると書いていた。その悲しみ、記憶を尋ねてひとはやってくる。悲しみ、記憶と交流してひとは成長する。これは金が書いている「墓=子宮」を経由することで「赤ん坊」(すべての幼きもの)が成長するという姿に似ている。
アルモドバルはすべての女が「母」になると書いた。「子宮」とは「母」のあかしである。そこで子どもは育ち、そこで「母」を無意識の内に学ぶ。「母」になることを身につける。「母」とは年齢差ではない。「母-娘」という関係のなかに「母」が存在するのではない。誰かが誰かを温かく抱き締め、その温かさのなかで誰かが育つなら、そのときその人が年下であっても、そして極端に言えば男であっても「母」なのだ。(アルモドバルは男であるが、そんなふうにしてあらゆる女性を讃美することで、女たちの「母」になっている。)
金の作品は、そうしたことを、田原、アルモドバルとは違って、女の肉体そのものをとおして描いている。だからその分だけ説得力が増している。金の作品のあとでなら、田原の作品、アルモドバルの作品は、もっと輝いて見える。