詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「朝、走る」

2007-07-18 08:35:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 白鳥信也「朝、走る」(「モーアシビ」10、2007年07月20日発行)
 朝の通勤ラッシュを描いている。いつも出会う男がいる。その男への悪意。

狐目のサラリーマン、またこいつだ

 1行で書かれた呼吸がいい。「狐目のサラリーマンまたこいつだ」と読点がない方がいいかなあ、と思う。読点がない方が、思考(感情)というより、「生理反応」(肉体感覚)が強くなると思う。読点があるために、反応がちょっとにぶくなる。「悪意」が薄れる。つまり……。

狐目が乗り込もうとするけれど
場所をゆずらない
先住民の無言の抵抗
二秒ほどで狐目はあきらめて俺を回り込む
小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが
狐目の狐耳の後ろに白髪がはえている
髪の毛全体を栗色まじりで染めている
それだけじゃないな
朝から髪の毛を数百回叩いて刺激を加えているまばら狐頭だ

 悪意に同情がまじる。
 こうなると、ちょっと(かなり?)つまらなくなる。「小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが」の呼吸が追い打ちをかける。
 「狐目のサラリーマン、またこいつだ」という読点のある呼吸が、ここではもうひとつ深呼吸するように「こうありたいこうありたいが」と胸の底へおりていく。こうなると人間の悪意というのは輝かなくなる。「生理反応」(肉体の反射的反応)ではなく、意識(?)というものが生まれる。(パニックに陥ったとき深呼吸をして肉体そのものをととのえ、肉体の落ち着きから精神を落ち着かせるのと幾分似ている。)
 白鳥は善良なサラリーマン(?)で、この深呼吸こそが白鳥の人間性を表わしているのだろうけれど、それではおもしろくない。詩は、ある意味では詩人の人間性など必要としていない。人間性を超えるもの、ここにないもの、ここにはないけれど、ほんとうは出現させてみたいものを求めている。たとえば通勤ラッシュで思わず抱く悪意の生々しさを。そして、そのことばのなかに自分自身の悪意を投げ捨てたい、放り込みたいと願うのが読者なのだ。

場所を譲ってやればよかった

 「悪意」からどんどん遠ざかって、白鳥の「苦労」「疲労」だけが漂いはじめる。「反省」ほど「悪意」から遠いもの、肉体の反射神経から遠いものはない。

見つけた
何が
希望と絶望がくっついているのが

 ランボーをもじってみても、なんだかやりきれない。
 「悪意」→「反省」→「抒情」というのでは、「善良」なサラリーマンの、「敗北主義」の「かなしみ」しか浮かび上がらない。

 白鳥のことばは「悪意」とは遠いところにこそ本質があるとわかって、まあ、人間性にふれることができてよかったといえばいえるのかもしれないけれど、詩を読んで楽しかった、という具合にはならない。
 「悪意」の呼吸ができない人間は、「悪意」を書くのは避けた方がいい。「悪意」の変質(善意への変化?)なんて、道徳の教科書みたいだ。



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辻和人「いたっていいじゃん」

2007-07-18 00:25:31 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「いたっていいじゃん」(「モーアシビ」10、2007年07月20日発行)
 いくつかの文体が混じっている。1連目、2連目、3連目で文体が違っている。

鉄棒で逆上がりをしようとして何度も失敗し
果敢にまたチャレンジする子供たち-
そんな幽霊がいたっていいじゃんか
てゆーか、実際いるし
           
丁度通りがかった小さな公園にぽつんと鉄棒が置いてあった
鉄棒だけで他の遊具が全然ない
滑り台やら何やらもあったが取り払われて鉄棒だけが残ってる
それもいつかは撤去されて多分公園自体もなくなるんだろう

公園のまぢかな死
そう考えるとちょっと不気味だなー
なんて思ってたら

 2連目の文体がつまらない。4連目も同じ文体で書かれている。描写をきちんとしようとしたために文体が変わったのだと思う。その部分をもっと違った文体、1連目の4行目の文体で書くことができたらこの作品は傑作になったと思う。「公園のまぢかな死」ということば、「死」の強烈さが生きてきたのではないか。「てゆーか、実際いるし」という文体と地続きの「死」が生々しく浮かび上がったのではないかと思う。

着てる服の野暮ったさから見て
こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう
もうさっさと大人になって
今は会社員とか母親とか父親とかの役目を忙しくこなしてるに違いない
あっ、もしかしたらぼくより年上かもしれない

だけど、あッちゃー
蘇らせちゃったんだよな
君たちを立派な幽霊として

 「着てる服の野暮ったさから見て/こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう」の一筆書きのような批判がいいなあ。「もうさっさと大人になって」という痛烈な批判がいいなあ。そういうすばやい精神の動きと、「だけど、」からはじまる3行の軽やかさ。これは一体のものだね。
 そして、そういう一続きの精神の動きのスピードがあってこそ、

ぼくは心配する
鉄棒が撤去されたらお前たち、どうするの?
公園がなくなったらお前たち、どうするの?

 が自然に輝いてくる。
 「お前たち、どうするの?」はそっくり辻にかえってくる。
 鉄棒がなくなったら、公園がなくなったら、公園の鉄棒で逆上がりの練習をしたという辻の「思い出」はどうなってしまうんだろう。
 気になるよなあ。

 それはたぶん鉄棒や公園がなくなることの、一番の重大事なのである。逆上がりできないこどもが増えることよりも、逆上がりの練習をしたという「思い出」をもてなくなるこどもが増える--そのことが人間にとって重大事なのである。
 そういう重大事を、「てゆーか、」というようなかるーい、かるーい文体で語れるところが辻の文体の強さである。
 この文体を徹底して、2連目、4連目も書くことができれば、辻は文体を確立したと言えると思う。そこまで文体を鍛え上げてほしいと思った。


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