詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「墓」

2007-07-04 22:56:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 田原「墓」(「現代詩手帖」2007年07月号、2007年07月01日発行)
 「千の風」という歌が流行している。田原の詩は、その歌と正反対の作品である。

死者は運ばれ埋められ
悲しみと記憶は
その時からここに定着する

 さっぱりしていて、とても気持ちがいい。悲しみと記憶は「墓」にさえあればいい。そこに悲しみと記憶が定着しているから、ひとは安心して日常を生きることができる。

生者はやって来て
墓碑の前で手を合わせ
足跡を残して、去る

 これもさっぱりしている。
 たださっぱりしているだけではない。
 次の3行がすばらしい。

墓は死のもうひとつの形
美しい乳房のように
大地の胸に隆起する

 墓は生きている。死者はもちろん死んだが、墓は生きている。悲しみと記憶は、そこに定着したまま生きている。それが「乳房」というのだから、うれしくなる。私たちは墓の前で、悲しみと記憶をいとおしむ。「乳房」を愛するように、悲しみと記憶を愛するのだ。
 生きているからこそ、次の行が生まれる。

墓も成長する、そこに立ったまま

 なんだか「乳房」が(乳首が?)立ったまま、どんどん成長していくようで、わくわくする。
 「死」は、たしかにこんなふうにして、愛され、美しいものとして世界に存在しなければならないのかもしれない。
 「死」を、そうした「いのち」としてみつめる田原の目に、すこやかな宇宙を感じる。抒情に汚れていない、いきいきとした宇宙を感じる。

 最後の3行も素敵だ。

墓は
地平線に育てられた耳だ
誰の足音かを聞き分けている

 墓はやってくる人の足音を聞き分ける。そのあと、どうするか。書かれてはないことを私はかってに考える。想像する。(この瞬間が、私は詩を読んでいて一番好きだ。)墓は、墓の前にきた人の足音を聞き分け、誰かを判断する。そして、そのひとにあわせて、悲しみと記憶を語りだすのだ。
 墓は墓の前にやってきたひととだけ交流する。
 とてもさっぱりしている。
 そして、さっぱりしているのに温かい。なつかしい。うれしい。「地平線」ということばがあるが、なんだか、ひろびろとした世界を切り開かれたような感じなのだ。とても遠くまで視界がひろがった感じがするのだ。
 友だちが尋ねてきて、のんで、歌って……「私はもう酔ったから寝る。あんたはかえりなさい。気が向いたら、あしたまた来なさい」という漢詩を思い出す。
 墓はきっと言うんだろうなあ。
 「思い出せることはみんな語った。もう帰りなさい。悲しみを忘れ、記憶がぼんやりしてしまったら、また来なさい。いっしょに悲しもう。いっしょに思い出そう」と。

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根岸吉太郎監督「サイドカーに犬」

2007-07-04 12:44:14 | 映画
監督 根岸吉太郎 出演 竹内結子、松本花奈、古田新太

 根岸吉太郎の演出力を実感できる傑作。映画以外にはありえない絶妙の人間描写、空間把握にただただ驚く。
 大人の世界をふと覗いてしまった少女(小学4年)の、ある夏休み。
 このころの子どもというのは大人の世界、恋愛の機微というものはわからない。しかし、大人の世界には何かが起きているということは、うすうす感じている。そうした感じが、竹内結子と松本花奈の演技の対比によって描かれる。
 ふたりでグレープフルーツを食べるシーンが絶妙である。
 竹内は無理をしてきたいくつものことをふいに思い出し、思わず涙ぐむ。それが唐突なので(子どもにとっては、大人の行為はどれもこれも唐突なものであるが)、思わず「グレープフルーツのしずくが目にしみたの?」と聞く。少女にとっては竹内は内部にどんな悲しみもかかえていない、あくまで明るくはつらつとした人間なので、竹内のこころのなかで起きていることがわからない。母親が突然家をきれいにして家出して行ったときも、何が起きているかわからなかった。(大人は、子どもを無視して、大人の世界を生きている。だからしっかり生きなければ……というのが少女の思いである。)
 竹内は「目にしみたの?」という問いかけに、少女が何もわかっていないことを知り、笑い出し、同時に、その落差に余計悲しくなって、ついに声を出して泣いてしまう。
 少女は竹内の姿を見ながら、少女の質問が間違っていたことを自覚する。自覚するが、もちろん、その後どうしていいかわからない。フォローの仕方がわからない。
 この「ずれ」のようなものは、文章では伝えにくい。そういうものを的確に伝えることができるのは、その「場」にいる人間だけ、人間の表情だけである。起伏の激しい竹内の表情。それをうかがう少女の、喜怒哀楽の少ない表情。少女の表情の動きが少ないだけに、そっと大人の世界をうかがいながら、自分自身を律している、何かをさぐろうとしている感じが絶妙に伝わり、わかりえないものにふれた瞬間の困惑がまざまざと伝わってくる。こいう感じは、その「場」を、肉眼の視線そのままに切り取る映画以外には表現しようがない。映画でしか描けないものを映画で描いている。
 そして、このわかっていることと、わからないことをそのままにして、状況が変わってゆくのを受け入れ、少女がじっくり成長していく感じが、「時間」として伝わってくる。映画は2時間だが、そこに描かれている「夏休み」という「時間」がそのまま、1か月半の感じで伝わってくる。「場」は同時に「時間」でもあるのだ。

 根岸監督は、人間を描きながら、同時に「時間」を描く。人間が変化していく「時間」の量(?)を手触りのあるものとして描く。そうしたことができる監督である。『雪に願うこと』も、人間が「時間」のなかで回復していく感じを美しく描いていたが、この映画でも人間が回復していく姿が描いている。人間が回復するというのは、状況を受け入れることができるようになる、ということである。

 少女は「夏休み」という「時間」をかけて、母親が家出して行ったこと、帰ってきたこと、そのあいだ「ヨーコ」(竹内)という不思議な女とくらしたこと、すべてを受け入れた。そして、大人になって、そんなふうに少女時代を過ごしたということを受け入れる。この映画の前後には、少女が大人になった時代が描かれているが、この「枠」構造は、そうした「時間」というものをくっきりと浮かび上がらせるための補助線でもある。「時間」--「時間」のなかで人間は回復する、その様子を描くというのが根岸監督のテーマなのだろう。
 「時間」がテーマだけに、「時代」もていねいに根岸監督は描いている。アパートの食卓、その上に並んだ調味料などなど。部屋に敷かれた花莫蓙ふうの敷物。百恵の歌、清四郎の歌、駐車場の土の(アスファルトの、ではない)の感じ--そんなところにまで視線が行き届いている。とてもていねいである。

 ていねいが根岸監督の「思想」なのかもしれない。根岸の肉体そのものなのかもしれない。
 「時間」のなかで動いてゆく人間、状況を受け入れてゆく人間。受け入れながら「幅」をひろげてゆく、強くなってゆく人間。急がせず、ただただ、彼らが彼ら自身の力で状況を受け入れることができるようになるまで、ていねいにつきあう。そのつきあい方が、根岸の「思想」なのだろう。
 こんなにていねいに時間を生きる人といっしょに仕事をできる役者、スタッフは幸福だろうと思った。そういうことまで感じさせる映画である。

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