詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「カメラ」

2007-07-03 22:16:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 田原「カメラ」(「現代詩手帖」2007年07月号、2007年07月01日発行)
 田原の世界観にはいつも驚かされる。「カメラ」には「荒木経惟さんへ」というサブタイトルがついている。その1連目。

あなたにとって、カメラは男女の化身だ
ズームするレンズは男根
シャッターボタンはクリトリス
いく度となくあなたの指が触れ
強烈な一瞬が世間に残った

 「ズームするレンズは男根」。これは、わかる。「シャッターボタンはクリトリス」。これも、わかる。しかし、そのふたつが一体になっているということに衝撃を受ける。「カメラは男女の化身」と1行目にあるのだから、ふたつが同時に存在することは最初から知らされているのだが、やはり私は驚く。
 カメラが男か女か、どちらであってもいいけれど、私にはそれはどちらかでしかない。「ズームするレンズは男根」と思ったら、ただひたすら「男」の視点で世界がつくられていく。「尺度」と「男」だけになる。私のことばの運動は、そうなる。そして、レンズが「男」なら、被写体は「女」になる。「男」と「女」が出会い、そこに「写真」という世界が誕生する。
 ところが田原はそんなふうにはとらえていない。
 カメラそのもののなかで男女が出会う。カメラは雌雄一体、雌雄共有の、いわば現実を超越した存在である、というのだ。
 これは驚くべき荒木評であると思う。
 カメラがあって、被写体があって、そこから「写真」が誕生するのではない。カメラ自身が独自に写真を生み出すのだ。現実世界は無意味というといいすぎになるだろうけれど、現実世界を写したものが「写真」ではないのだ。カメラが生み出したものが「写真」であり、「写真」が自らの力で誕生し、その「写真」の世界へ、現実そのものをひっぱりこむ--田原は荒木をそういうカメラマンだと批評しているのである。

あなたにとっては、ファインダーは覗き穴
世界はあなたの眼前で黒白を弁じない
あでやかな彩り、しなやかな動き
被写体との隔たりはあなたと世界との距離
手を伸ばせば触れることもできるのに
遥かに遠く離れている

 カメラそのものが宇宙生成の現場なのである。宇宙生成の現場が、激しいエネルギーで私たちの現実世界に挑んでくる。ブラックホールのように、私たちの現実世界を重力の力で飲み込んでしまう。
 「手を伸ばせば触れることもできる」は錯覚である。カメラを手放せば、たしかに世界には触れることができる。しかしカメラをいったん手にしてしまうと、カメラ自体が巨大な宇宙になる。私たちが宇宙全体に触れられないことの裏返しのように、荒木はカメラを手にしたときカメラという宇宙、生成の現場に触れることはできるがというか、その現場にどっぷり引き込まれてしまっているので、私たちの現実世界は「遥かに遠く離れている」という現象としてあらわれてくるのである。
 このようにして出現する世界、「写真」は「矛盾」である。「矛盾」とはまた混沌である。カオスである。そこにはエネルギーが何かを生み出しているという現象だけがある。その現象は、普通に流布していることばでは表現できない。表現しようとすると、どうしても「矛盾」を含んだものになってしまう。
 そうしたことを書いたのが第3連。

あなたにとって、命はもしかすると悲しい記憶
陽光の下に老いてゆく緑の樹木
入道雲の下に疲労する都市
忘れ去られる廃墟さえ
そしてねことトカゲの玩具のまなざしまでもが
あなたの手によって自身を超えた不思議さに静止する

 動いている。誕生という激しい動きがある。それなのに「静止」としか呼べない「矛盾」。田原は、そういうものを見ているのだ。

 「矛盾」。その視点から第1連へ引き返すとき、私は、また驚く。

強烈な一瞬が世間に残った

 田原は「世界に残った」とは書かずに「世間に残った」と書いている。荒木の「宇宙」は「世間」という「宇宙」なのである。「間」。「世間」ということばが含んでしまう「間」。「間」は動く。荒木の写真は「間」を動かしている。「間」を動かす生成の現場なのである。

 私は荒木の写真をていねいには見て来なかった。急に荒木の写真が見たくなってしまった。

コメント
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