詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高塚かず子「噴水」

2007-07-11 15:09:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 高塚かず子「噴水」(「something 5 」、2007年06月25日発行)
 「混声合唱とピアノのための組曲・水の旅」のなかの1篇。

爛漫の桜
らんまんのさくら

 書き出しのこの2行。読んだ瞬間音楽が聞こえたような錯覚に襲われた。「合唱」のなかで、明確に違った音として響くこと、違いながらも重なり合って響くことを期待して高塚は書いたのだと思う。ことばを提供するだけではなく、音そのものも提供しているのだ。

水はきらめく 噴きあげる
霞が池と呼びかわして
水はささやく
ひとのいとなみ
旅の途中のできごとを

さあさあとしなしなと
水はきらめく 噴きあげる

らんまんのさくら
見あげる母の腕のなかで
赤ちゃんが不意に
むちむちした手を振る
赤ちゃんだけに見えたのは
ほほえみかけた 水の妖精

あ いま 噴水に溶けていく

 「さあさあとしなしなと/水はきらめく 噴きあげる」の2行が美しい。そして何より、最後の「あ いま 噴水に溶けていく」が耳線(視線のように「耳」にも音をおいかけるものがあると仮定してだが)がひっぱられて行く感じがする。
 合唱曲になったものを聞いてみたいと思った。



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入沢康夫と「誤読」(メモ53)

2007-07-11 14:38:14 | 詩集
 入沢康夫『詩の構造についての覚書』(思潮社、2002年10月20日発行、増補改訂新版)。
 入沢がこの詩論集で書いていることはひとつである。「詩」の成立には「詩人」「発話者」「主人公」が関係している。この3者は混同される。しかし、入沢はこれを混同してはならないという。

 《作者》と《発話者》は区別されねばならず、それはどんな詩においても詩作品であるかぎり(いわゆる私詩的といわれる詩においても)そうなのだ

 そのわかりやすい例として入沢は与謝野寛の「誠之助の死」を取り上げている。

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。

 与謝野は大石誠之助の死を「いい気味」とは少しも思っていない。これは与謝野と発話者がおなじ考えをもっていないという証拠である。作者と発話者は同一人物ではない。そして、このことについてさらに補足している。

 感慨をそのまま書きつけることは危険であり、どうしても反語的表現をとらざるを得なかった

 この反語は、時代相や社会情勢によって強いられた反語である以上に、(作者がそれを明確に意識していたかどうかは別として)作品自体の要請による反語ではないのか。

 反語を用いて書く方が作品自体として強烈になる。自立する。入沢は、そういうのである。
 そのとおりだと思う。
 そして、ここから私は入沢の考えと少し違ったことを考えるのである。(あるいは入沢の考えていることを、別の角度から言い直してみたい気持ちにかられるのである。)
 作品自体か要請する「反語」という「構造」。そこを出発点にして見つめなおすとき、作者(与謝野)と発話者(「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」と言っている人物)は一致するのではないのか。
 「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「言説」が、時代に、社会に隠れている。それを表面に引き出す。引き出して、くっきり見えるようにする。それは、その「言説」に同調するためではなく、その「言説」がおかしいと読んだ人に感じてもらうためである。
 「読者」を想定し、「反語」という「構造」のなかに「読者」を引き込む。「反語」という「構造」のなかで「読者」と「発話者」が重なる。おなじ感覚を共有する。そのとき、「読者」は「反語」という「構造」のなかで「作者」と「読者」が重なるのを見る。「反語」で書かれた悲しみ、苦悩、怒りが「読者」と「作者」のあいだで共有される。そのとき「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」ということばは消える。

 「詩は表現ではない」というもう一つの重要なテーマがあるが、その「表現」とは、たとえば今引いた「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「意味」、見かけの「伝達内容」を指している。
 詩は、それでは何か。
 「読者」と「作者」のあいだで怒り、悲しみが共有されたとき、そこに書かれていたことばが「消える」ということの、「消える」という運動が詩なのである。
 消えて何が残るか。
 ことばが「反語」という運動をした、その運動の「構造」(運動の軌跡)が詩なのである。

 この「消える」を入沢は、サルトルのことばを借りながら言い直している。サルトルの「作家の政治参加」を引用している。

話すということが、意味の伝達ということならば、創造された事物(作品)は沈黙に匹敵する。もし書くということが伝達することによって成立っているのだとすれば、文学作品は言語を超えた沈黙による伝達として現れる

 「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「表現」(内容=意味)は、それを超越した「沈黙」、そのことばを「消してしまう」巨大な「沈黙」による伝達としてあらわれる。「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」ということばを批判することばはいっさいあらわれない。むしろ、そのことばが流布する。そして、流布しながら、そのことばの「意味」を消してしまう力が読者のなかで育つ。沈黙が育つ。
 詩にかぎらず、文学とはことばになっていないものを言語化する行為である。ことばになっていないものであるから、それは最終的にはことばを超えたもの「沈黙」によって共有されるのである。
 そのとき残るのも、「沈黙」ではない。「沈黙」にいたることばの運動である。運動の「構造」である。

 この「構造」を入沢は次のように言い換えている。

詩とは、語を素材とする芸術ではなく、言葉関係自体を、いや、言葉関係自体と作者(または読者)との関係そのものさえをも素材とするといった体の芸術行為である

 「誠之助の死」を読んだときの印象にもどると、入沢の言っていることがわかりやすい。「誠之助の死」が「詩」として成立するのは、「読者」が「反語」という「構造」を受け入れ、「読者」のなかで「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「表現」(意味)が「消える」とき(「沈黙」にかわるとき)である。「読者」が存在し、「読者」のなかに「構造」が残らないかぎり(その「構造」が成立しないかぎり)、詩は存在しない。

 この「構造」は、そして「読者」がつくりだすものである。「作者」が「反語」という「構造」をつくりあげても、その「構造」に見合ったものを「読者」が作り上げないかぎり、それは「反語」とはならず、冷たい批判そのものとして流布してしまう。
 「読者」のなかに、どんな「構造」を呼び覚ますか。言語はどんな運動ができると覚醒させるか--それが入沢の詩を書く理由だろう。

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