詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

諏訪哲史『アサッテの人』

2007-08-03 22:15:22 | その他(音楽、小説etc)
 諏訪哲史アサッテの人』(講談社、2007年07月23日発行)
 第 137回芥川賞の受賞作。
 「ポンパ」など、意味不明のことばを突然発する叔父のことを「書く」小説である。叔父を描くふりをして、「書く」ことを描いた小説である。そして、この「書く」という行為には、叔父の妻、叔父そのものもからんでくる。彼らの「書いた」日記(手記?)が重要な役割を果たしている。だが、その叔父の妻、叔父の「書いた」日記(手記)も、「作者」によって書かれたものである。「作者」が叔父の妻、叔父の日記を「書き」、それを叔父の妻の日記、叔父の日記と言い放って、引用し、小説を組み立てる。組み立てようとしている小説、「書く」をめぐる小説である。
 小説としては、そんなに目新しい手法ではない。

 叔父の妻の日記におもしろい部分がある。夫(つまり叔父のことだが)の「ポンパ」などの不思議な発言をめぐる部分である。

わたしは夫の言葉をこのように採取し、記述し、分析してみることを思い立った。…けど、果たして、このわたしの行為は常軌を逸したものだろうか。それともいたって理性的なものだろうか?

 「わたしの行為は常軌を逸したものだろうか。それともいたって理性的なものだろうか?」。のこ論理の順序が、私にはとても不思議に思えるのである。私ならば、

 わたしの行為は理性的なものだろうか。それともいたって常軌を逸したものだろうか?

 と考える。まず、自分が思い立ったことは「理性的」だという意識があり、そのあとでもしかすると逆かもしれないと反省する。ところが叔父の妻はそんなふうには考えないのである。最初から「常軌を逸したものだろうか」と考えはじめる。
 そして、この感じ(叔父の妻の思考の感覚)が、どうも作品全体を貫いているように感じられる。いろいろなことが書かれているが、そのすべてに対して「これは常軌を逸したものだろうか。それとも理性的なものだろうか?」という意識が見える。(そういう意味では、「定規」がしっかりしている。文体が安定している。)

 「書く」ということをテーマにした小説を書く。これは常軌を逸したものだろうか。それとも理性的なものだろうか? 実際、この小説は、そのことを問うてもいる。常軌を逸していると思う人は1ページで読むのをやめるだろう。理性的なものだと思う人は最後まで読むだろう。
 そして、読み終えたとき、「理性的」ということばが、いやあな感じでのしかかってくる。小説って「理性的」に読むものなのか? 理性で読むものなのか? そのことが気にならなければ、この小説は楽しいかもしれない。
 私は、かなりいやな感じが後に残った。読んでよかった、おもしろかった、新しい文体を読んだという感じがしなかったのである。

 ただし、「チューリップ男」の部分だけはとても好きである。叔父がエレベーターのなかを監視カメラで見ている。

彼が箱の隅にしゃがみ込み、頭の上に両手でチューリップを作って、じっと目を閉じていたことがある。あの、子供が「お遊戯」でやるような、冠のチューリップだ。僕はそれを見て、思わず胸を衝かれるような、世にも美しいもの目の当たりにしたような、なんともいえない息苦しさを覚えた。そして「ああ、これだ」と思った。繁忙を極めるオフィスビルにあって、唯一この箱の中だけは、周囲から隔絶した静かな刻が流れているように思えた。彼をこころから賞讃したい気持ちになった。

 日常(定型)から逸脱する男。そこに人間のいのちの輝きをみている。そしてこの逸脱を、この小説では「アサッテ」と呼ぶのだが、しかし、チューリップ男と「ポンパ」叔父では違いすぎないだろうか。
 逸脱はチューリップ男のように、その行為の意味が誰にでもすぐわかるものでなければ「逸脱」にはならないのではないのか。「ポンパ」と叫ぶ叔父の逸脱は、逸脱とは呼べないものだろう。それをなんとか「逸脱」の枠内に取り込もうとしているのがこの小説の企みといえばいえるのだろうけれど、どうもすんなりとは落ち着かない。私のこころにはすんなりとは落ち着かない。
 小説を読み終わった瞬間に、ああ、あの「チューリップ男」を主人公にした小説が読みたい、とただ、それだけを思ってしまった。

コメント (1)
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