詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『花ものがたり』

2007-08-24 14:38:12 | 詩集
 林嗣夫『花ものがたり』(ふたば工房、2007年07月10日発行)
 「過ぎていくもの」の3連目。

さあ寝ようかと消灯して なかなか寝つかれないでいる時
ふと外の闇が変質しはじめたのに気がついた

 何かが変質しはじめる。それに気がつく。それが林の詩である。「変化」ではなく「変質」ということろに林の特徴がある。
 以前感想を書いた記憶があるが、たとえば「駐車場で」。その2連目。

目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

 ここでは「変質」ではなく「変身」ということばがつかわれているが、内容は「変質」ということばの方が的確だろうと思う。金木犀が「ただ」から「ほんとう」へと「変身」するというのは、外形はかわらず、その内部が充実する、内部の変化、変質といった方が的確だろうと思う。
 「変身」ということばをつかっているのは、そうした内部の変化が外部にまで影響を与え、あたかも姿・形までもが変化してしまったような強烈な印象を強調するためである。
 そしてこの「変質」は、金木犀の花が花自体の力で「変質」するというよりも、それに接近する林によって引き起こされている。

駐車場のふちに
金木犀の若木が並んでいて
いまちょうど花盛りだった

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに勧め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した
その時である
目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

 林がどんなふうに対象(存在)に接近して行ったか。そのことが重要だ。
 「ちょっとブレーキを踏み/踏んだ足をすこしゆるめるようにしながら/ぐい、ぐい、と接近し」た。そこには対象との距離のとり方が具体的に書かれている。むりやり接近するのではない。相手の様子を見ながら、まだ大丈夫、もう少し、と林自身の動きを制御している。
 そういう配慮にこたえるように、金木犀は「変質」したのである。「変身」してみせたのである。そういう配慮をしてくれる人間なら、花の「変質」そのものを理解できると判断して「変質」したのである。
 対象(金木犀)と林のあいだには、ことばを超えた対話がある。その対話のなかで、金木犀は「変質」する。「変質」の過程がことばで再現されるとき、そこに林の、詩がしっかりと定着する。

この対話の美しさは、金木犀のような植物(花)だけではなく、人間にも向けられる。距離のとり方の美しさが対話の美しさであり、そこで花開くものがあるのだ。
 妹の死と火葬を書いた「花の骨」。

妹が死んだ
あふれるほどの紫陽花の
季節のまん中で
口をぽっかり開けて

二か月半ものあいだ
人工呼吸器の管を通していたから
口はもう
閉じることができない

(略)

でもやっと終わった
息子たち そのお嫁さん 赤ちゃん
集まった家族のまん中で
口をぽっかり開けて

死んでから始まる自分の息もある
といった表情で

 「死んでから始まる自分の息もある」。これは、美しい対話をこころがけている林に向けて、死後から送り届けられた妹さんの「声」である。この「声」を聞き取ることができるのは林だけである。

コメント
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