野田弘志展「写実の彼方に」(豊橋市美術博物館)
鉛筆で描かれた「湿原」シリーズが最初に展示されている。細密な描写に深い集中力を感じる。新聞の連載小説の挿絵である。これをほぼ毎日描いていたのかと思うと、なんだか苦しくなる。なぜこんなに集中力を必要とする絵を描くのだろう。野田にとって絵を描く喜びとは何なのだろう。線が交錯し、面になり、線の交錯した面が影になる。線に置かされない空間が光になる。光と影が混ざり合い、物質になる。野田は、野田の描く線が物質に「なる」瞬間を楽しんでいるのだろう。一方、私は、野田の作業とは逆の方向から絵に接近してして行く。たとえば女性の顔。写真と見まごう陰影。それが目を凝らして見ると細い細い線の塊から構成されている。陰影は細密な線に分解されて行く。人間の肌、そのやわらかな輝きが無傷の白い地肌と鉛筆の細い線に分解されてゆく。その細密な分解作業に驚く、その驚きの奥から、驚きを否定するように、肌の存在、その物質としてのリアリティーが氾濫してくる。私は何を見たのだろうか。鉛筆の細かな線を見たのだろうか。女の肌の陰影を見たのだろうか。そうではなく、野田の集中力が、細密な線の交錯の中で物質そのものに「なる」瞬間を見たのだと思う。
次に見た「黒シリーズ」にも圧倒された。背景は黒。しかし、その黒の中に光が漂っている。その光を結晶させて、静物が浮かび上がっている。静物のリアルさにも驚くが、なによりもそれを光の結晶にしてしまう「黒」そのものの表情に驚かされる。黒い空間を黒い空間として定着させる集中力に驚く。その地肌の美しさに驚く。
背景と私は簡単に書いてしまうが、背景などないのだ。あるのは空間という物質である。野田の手によって、空間さえも物質に「なる」のだ。
興味深い絵が一枚ある。レースのテーブルクロスの上に皿があり、その上に果物が盛ってある。この絵を野田はどう描いたか。筆遣いを見ていくと、まずテーブルクロスを完全に描いてから、皿を描き、その後果物を描いたらしい。皿の部分に、隠れているテーブルクロスの模様が残っている。空間は隠されている部分まで「存在」そのものである。というより、そんな風に色と形を重ねることで、野田の描く静物は「存在」そのものに「なる」。
絵のなかで、野田の見つめた生物は存在に「なる」。野田の絵を見ることは、物質が存在に「なる」瞬間に立ち会うことでもある。
鉛筆で描かれた「湿原」シリーズが最初に展示されている。細密な描写に深い集中力を感じる。新聞の連載小説の挿絵である。これをほぼ毎日描いていたのかと思うと、なんだか苦しくなる。なぜこんなに集中力を必要とする絵を描くのだろう。野田にとって絵を描く喜びとは何なのだろう。線が交錯し、面になり、線の交錯した面が影になる。線に置かされない空間が光になる。光と影が混ざり合い、物質になる。野田は、野田の描く線が物質に「なる」瞬間を楽しんでいるのだろう。一方、私は、野田の作業とは逆の方向から絵に接近してして行く。たとえば女性の顔。写真と見まごう陰影。それが目を凝らして見ると細い細い線の塊から構成されている。陰影は細密な線に分解されて行く。人間の肌、そのやわらかな輝きが無傷の白い地肌と鉛筆の細い線に分解されてゆく。その細密な分解作業に驚く、その驚きの奥から、驚きを否定するように、肌の存在、その物質としてのリアリティーが氾濫してくる。私は何を見たのだろうか。鉛筆の細かな線を見たのだろうか。女の肌の陰影を見たのだろうか。そうではなく、野田の集中力が、細密な線の交錯の中で物質そのものに「なる」瞬間を見たのだと思う。
次に見た「黒シリーズ」にも圧倒された。背景は黒。しかし、その黒の中に光が漂っている。その光を結晶させて、静物が浮かび上がっている。静物のリアルさにも驚くが、なによりもそれを光の結晶にしてしまう「黒」そのものの表情に驚かされる。黒い空間を黒い空間として定着させる集中力に驚く。その地肌の美しさに驚く。
背景と私は簡単に書いてしまうが、背景などないのだ。あるのは空間という物質である。野田の手によって、空間さえも物質に「なる」のだ。
興味深い絵が一枚ある。レースのテーブルクロスの上に皿があり、その上に果物が盛ってある。この絵を野田はどう描いたか。筆遣いを見ていくと、まずテーブルクロスを完全に描いてから、皿を描き、その後果物を描いたらしい。皿の部分に、隠れているテーブルクロスの模様が残っている。空間は隠されている部分まで「存在」そのものである。というより、そんな風に色と形を重ねることで、野田の描く静物は「存在」そのものに「なる」。
絵のなかで、野田の見つめた生物は存在に「なる」。野田の絵を見ることは、物質が存在に「なる」瞬間に立ち会うことでもある。