詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「きょう」

2007-08-08 21:58:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「きょう」(「青い階段」36、2007年08月01日発行)
 自宅で介護(?)している人をデイケア施設に送り出す。何もすることがなくなった日のことを描いている。

高齢者送迎バスがくる
おねがいします
挨拶をすると いってきます
すこし間のびした言葉でかえってくる
陽は玄関の前を照らしているが
庭のあたりは日陰だ
家に入り
冷たいリンゴジュースを飲む
へやを見渡した
とても静かだ
私ははしゃいでいた
顔をざぶざぶ洗った
それから 椅子にすわったのだが
理由を説明しなさい
手もあげないのに
アリによく似た顔の先生が
はい あなた答えて
と ひどく緊張した声でいう
まともな説明などできない
私ははしゃいでいるのだから
こうしてあさが過ぎた
ひる頃 先生がまたあらわれた
これといってやりたいことが思いつかないので
じっとすわっていることにした

バスに乗りこんでいった人が
帰ってくるまで
じっとすわっていた

 「それから 椅子にすわったのだが」以降がおもしろい。
 坂多は学校の先生なのだろうか。あるいは先生だったのだろうか。先生が名指しで誰かに答えを要求する。そういう現場を何度も見てきたのだろう。体験してきたのだろう。そういう「過去」がふっと湧いて出てくる。そのあらわれかた、ことばのリズムにむりがない。やりとりが、坂多の「肉体」になってしまっている。こうした「肉体」の表現が私は大好きだ。ことばを「頭」で動かしてゆくのではなく、「肉体」が抱え込んでしまっていることばにしたがう。「肉体」から聴こえて来ることばに耳をすまし、聞き取るという詩が大好きだ。

 最近、日経新聞に「名訳」だったか、「名著」だったか忘れたが、書評で絶賛されていた「輝くもの天より墜ち」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア)を読んだ。文章がつまらない。ストーリーを展開するのに忙しくて人間が描かれていない。1章読んで、やめてしまった。
 文学の文章というのは「事件」の報告ではない。文学というのはストーリーではない。そこに何があり、何が起きたかということは重要ではない。重要なのは、そこに存在するものが、主人公にとってどんなふうに見えたか--その見え方である。
 世界の見え方は人間の数だけある。
 見え方をつたえるのが文学である。
 坂多の「それから 椅子にすわったのだが」以降は、そういう「見え方」をきっちりとつたえている。部屋の中には誰もいない。アリの顔を先生などいない。それでも、その先生がいて、坂多に質問して来る、というふうに坂多には「世界」が見える。「世界」がそんなふうに見えるのは、そういう生活を坂多がしてきたからだ。今、ここ、という現実のなかに過去が噴出して来る。「見え方」とは、過去の噴出の仕方と言い換えることもできる。
 そこに何があるか、何と向き合っているか、ではなく、それと向き合ったとき、それがどんなふうに見えるかという「見え方」のなかに人間性があらわれる。
 そうしてあらわれた「人間性」。それが肯定に値するものなのか、否定すべきものなのか、ということは、そして文学には関係ない。
 坂多がひとりで時間をもてあまし(?)、やりたいことがわからずにただ座っている--そのことが評価に値することか、否定すべきことなのかは、文学とは関係ない。「見え方」にあらわれる「人間性」が「正直」であるかどうかが問題なのだ。
 坂多は正直である。
 その正直さは、「理由を説明しなさい/手もあげないのに/アリによく似た顔の先生が/はい あなた答えて/と ひどく緊張した声でいう」というリズムと、冒頭の「おねがいします/挨拶をすると いってきます/すこし間のびした言葉でかえってくる」のことばの間合い、リズムの共通性になってあらわれている。今起きたことの対話(?)のリズム、現実のリズムと、存在しない先生とのやりとりのリズムがぴったり重なり合う。ぴったり重なることで、架空のものが「現実」になる。そういう重なり具合のなかに、正直さがあらわれる。
 そして、正直であるがゆえに、「私ははしゃいでいた」「私ははしゃいでいるのだから」がせつせつと迫って来る。特に「はしゃいでいるのだから」の「いる」という現在形がせつせつと響いて来る。ほんとうははしゃいでいない。じっとすわっている。それでもはしゃいで「いる」のだから、というのは、はしゃぎたいのに、はしゃぎたかったのに、という気持ちがあるからである。はしゃぎたい、はしゃぎたかったのに、その気持ちを、まだ気持ちにならない気持ちが裏切ってゆく。
 自分の気持ちを、ほかでもない自分の気持ちが裏切ってゆく。矛盾。その矛盾のなかに、坂多の人間性、思想があらわれる。
 矛盾--ということばを書いたついでに補足すれば、そこにはいない先生が坂多に質問して来るというのも、一種の「矛盾」である。ありえないことである。そうした「矛盾」を描くことで、世界を表現するのが文学なのだ、と、あらためて思った。

コメント
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