詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子『道を 小道を』(もう一度)

2007-08-17 08:01:54 | 詩集
 伊藤悠子『道を 小道を』(もう一度)(ふらんす堂、2007年07月25日発行)
 きのうの感想は書き漏らした部分がずいぶん多い。というか、読めば読むほど伊藤のことばの動きのていねいさ、正直さが伝わってくる。とても気持ちがいい。きのうも書いたけれど、たとえば「行方」という詩が亡くなった赤ん坊のこと、赤ん坊を亡くした女性の体験を描いているのだとしたら、そうした作品に対して「気持ちがいい」というのは不謹慎な感想になるかもしれないのだが、私には、そういうことばしか思いつかない。とても気持ちがいい。伊藤がとても正直であると感じる気持ちよさだ。(少し、魯迅を読んだとき、あるいは鴎外を読んだときの気持ちよさ、ああ正直なひとなんだ、と感じる気持ちよさに似ている。)

さいしょは両腕で抱いていた
いつのまにか片腕で抱く小ささになり
すぐに手のひらに移り
またたくまに指先から離れていった
中指にきびがらのような感触が残った

 冒頭の各行で「時間」の動きが違っている。「さいしょ」は動かない。固定している。「いつのまにか」はゆっくりした動き、意識できない動き。「時間」は、そういう意識できないようなゆっくりしたスピードで動いた。それほど赤ん坊をなくした愛しみ、切なさは重たかった。それが「すぐに」「またたくまに」とどんどん「時間」の「間」が短くなる。その運動、動きの変化を、「さいしょ」「いつのまにか」「すぐに」「またたくま」という簡潔なことばで、それ以上の正確さはありえないような正確さで書いている。定着させている。
 何度でも書くが、これは伊藤が体験を繰り返し繰り返し抱き締めているからである。繰り返すことで余分なもの、逸脱していく余分な力をなだめこんでいるからである。こういうことばに触れると、ああ、体験というものはほんとうにすばらしい。人間をしっかりと鍛える。人間を正直に育てる、と強く感じる。

 「秋へ」という作品も、幼いまま亡くなった赤ん坊のことを描いているのだと思う。

あれは雨ではなく
秋の木の葉の走るやさしい音
窓まで行って確かめることもなく思うとき
(秋になったね)
どちらともなく言うとき
秋の どこか
光る
ほの光る
(ひつぎの重さはほとんど花の重さと白木の玩具)
とおい秋におくった小さなひとに
短い手紙を書くように

 冒頭の3行。私は、そこに書かれていないことを感じてしまう。私の感じたことを、かっこで補う形で書いてみたい。

あれは雨ではなく
秋の木の葉の走るやさしい音(ではなく)
(あの子が木の葉のあいだを走る音)
(窓まで行って何度も確かめた)
(あの小さく揺れる木の葉は、あの子の足が触れたから)

 何度繰り返したのだろう。もう思い出せないくらい繰り返したに違いない。「とおい秋に」と言うしかないくらい繰り返したのだ。「とおい秋」の「とおい」は何度も何度も窓まで確かめに行った「距離」の繰り返しが積み重なった「とおさ」だ。肉体だけがわかる「とおさ」だ。それは「抽象」ではなく、まぎれもない「具体」である。「とおい」は伊藤の肉体の中にある、なまなましいものだ。
 だからこそ、

窓まで行って確かめることもなく思うとき

 この、行かないこと、動かないことが、逆に切実に亡くなった赤ん坊を蘇らせるのだ。柩に入れて、そのときの様子までが、切実に、静かに蘇るのだ。
 それは「行方」で赤ん坊が「きびがら」のような感触になることで、より切実にこころに定着したように。
 窓まで行かないこと木によって、逆に、しっかりと赤ん坊に会うのだ。風の音を赤ん坊が帰ってきた足音と勘違いして窓辺へ行ったときは、赤ん坊は見えなかった。しかし今、窓辺に行かないからこそ、しっかりと蘇ってくる。

 不思議な不思議な現実。その不思議さを、伊藤はとんでもない正直さ(伊藤だけがたどりついた正直さ)で、ていねいに語っている。
 もう一度書いておく。ほんとうにすばらしい詩集だ。


コメント
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