たなかあきみつ訳・セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」ほか(「ガニメデ」40、2007年08月01日発行)
訳詩には「原文」がどれくらい反映されているのだろうか。たとえば、セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」。
「ほころび、」「あり、」「たむろし、」この連用形のたたみかけ。私が「詩」を感じている部分は、そのたたみかけだ。そこで展開されるイメージの錯乱は、たたみかけのスピードがあればこそ、きらきら輝く。
ロシア語(?)に「連用形」というものがあるかどうか知らない。「連用形」というものがないと仮定すれば、ここに訳出された「連用形」はたなかの発明であり、たなかの「詩」ということになる。そこにたなかの思想がある。また、それが無意識であれば、それはそのままたなかの肉体であり、それもまたたなかの思想だ。
他国の言語をこんなふうに吸収し、肉体をくぐらせ、提出する力があるのに……と思わず思ってしまう部分が、しかし、たなかの訳に残っている。きょうはそのことについて少し書いておきたい。
「待つ」の最後の部分。
「そうして呟いて遠ざかった:《存在しない。もしくは--」の「:」。この記号は日本語には存在しない。日本語に存在しないものをつかっている。これは「訳」として不親切ではないだろうか。
「:」は、私の読んだかぎりでは「イコール」である。数学の「=」、等記号に対応する。この部分では「呟いて」の内容が《 》であらわされている。「つぶやき」と《 》の中身が等しい。それをあらわすために「:」がつかわれている。「:」がなくても、「つぶやき」の内容は《 》にくくられた内容であることにかわりはないのだが、わざわざ「:」をつかうのは、その記号が原文にあるからかもしれない。そしてもし、その記号が原文にあるのだとしたら、ほんとうはその記号をこそ「日本語」として訳出しなければならない。「:」という記号にこそ(私の読んだかぎりでは)セルゲイ・ソロヴィヨフの思想が強烈にあらわれている。
たとえば「短命植物(エフェメール)」の冒頭。
「転倒している夢」=「素足のように……」なのである。
ある書きたいことがある。そして、その書きたいことが、一種の飛躍を起こす。いままでの「次元」とは違った「次元」へと飛躍する。そこには「飛躍」特有の「断絶」と「連続」がある。
ことばの言い換え--そのなかには「飛躍」があり、「飛躍」のなかには「断絶」と「連続」がある。そのことを「:」が語っている。
アリストテレスに戻っていえば、「つぶやき」と《 》の内容には、やはり「断絶」と「連続」がある。アリストテレスのいったことを受け止める。単に何かをつぶやいているというのではなく、聞いた人がそれを明確にことばとして理解するというアリストテレスから聞き手への「飛躍」、アリストテレスと聞き手は別人であるという「断絶」、同時にアリストテレスのことばを理解するという「連続」=アリストテレスが聞き手のなかで引き継がれるという「連続」がある。
こうしたもっもと重要な部分を「:」という記号で代弁させるのは「訳」として「手抜き」のように思える。「:」が原文になく、たなかが発明したものであるなら、なおのこと、記号ではなく、「連体形」のように日本語にしてもらいたい。そういう「訳」を読みたいと思った。
*
たなかはヨシフ・ブロツキイの「はいたかの秋の叫び」を「ロシア文化通信 GUN」20(2007年07月31日)で訳している。冒頭の1連。
2行目「灰青の、薄紫の、深紅の、鮮紅の」の「の」の繰り返し、たたみかけが美しい。
訳詩には「原文」がどれくらい反映されているのだろうか。たとえば、セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」。
その夢では花々のように女学生らが咲きほころび、
あるいは若枝に芽吹いてさやさも繙かれる数々の本があり、
あるいはそこには盲目のちびっこクー・クラックス・クランの面々がたむろし、
あるいは単にどか雪
「ほころび、」「あり、」「たむろし、」この連用形のたたみかけ。私が「詩」を感じている部分は、そのたたみかけだ。そこで展開されるイメージの錯乱は、たたみかけのスピードがあればこそ、きらきら輝く。
ロシア語(?)に「連用形」というものがあるかどうか知らない。「連用形」というものがないと仮定すれば、ここに訳出された「連用形」はたなかの発明であり、たなかの「詩」ということになる。そこにたなかの思想がある。また、それが無意識であれば、それはそのままたなかの肉体であり、それもまたたなかの思想だ。
他国の言語をこんなふうに吸収し、肉体をくぐらせ、提出する力があるのに……と思わず思ってしまう部分が、しかし、たなかの訳に残っている。きょうはそのことについて少し書いておきたい。
「待つ」の最後の部分。
こうして時間を切断したのだ、切片を無限に
砕きながら、アリストテレスは、
そうして呟いて遠ざかった:《存在しない。もしくは--
ほとんど存在しないのだ、時間は、時間としての
私は》。そして蛇は
切片ごと時計回りに
底の沈泥でしばしけいれんする。
彼らのほうはいつも待っている、水辺の木をながめながら。
「そうして呟いて遠ざかった:《存在しない。もしくは--」の「:」。この記号は日本語には存在しない。日本語に存在しないものをつかっている。これは「訳」として不親切ではないだろうか。
「:」は、私の読んだかぎりでは「イコール」である。数学の「=」、等記号に対応する。この部分では「呟いて」の内容が《 》であらわされている。「つぶやき」と《 》の中身が等しい。それをあらわすために「:」がつかわれている。「:」がなくても、「つぶやき」の内容は《 》にくくられた内容であることにかわりはないのだが、わざわざ「:」をつかうのは、その記号が原文にあるからかもしれない。そしてもし、その記号が原文にあるのだとしたら、ほんとうはその記号をこそ「日本語」として訳出しなければならない。「:」という記号にこそ(私の読んだかぎりでは)セルゲイ・ソロヴィヨフの思想が強烈にあらわれている。
たとえば「短命植物(エフェメール)」の冒頭。
彼らがそこで植物のように転倒している夢:
素足のような小さな頭は地中にあり、地中から首が
生育する、煙のように空を足で
行ったりきたり。彼らはもろもろの夢をもぎとる、夢はじつにおいしい--
「転倒している夢」=「素足のように……」なのである。
ある書きたいことがある。そして、その書きたいことが、一種の飛躍を起こす。いままでの「次元」とは違った「次元」へと飛躍する。そこには「飛躍」特有の「断絶」と「連続」がある。
ことばの言い換え--そのなかには「飛躍」があり、「飛躍」のなかには「断絶」と「連続」がある。そのことを「:」が語っている。
アリストテレスに戻っていえば、「つぶやき」と《 》の内容には、やはり「断絶」と「連続」がある。アリストテレスのいったことを受け止める。単に何かをつぶやいているというのではなく、聞いた人がそれを明確にことばとして理解するというアリストテレスから聞き手への「飛躍」、アリストテレスと聞き手は別人であるという「断絶」、同時にアリストテレスのことばを理解するという「連続」=アリストテレスが聞き手のなかで引き継がれるという「連続」がある。
こうしたもっもと重要な部分を「:」という記号で代弁させるのは「訳」として「手抜き」のように思える。「:」が原文になく、たなかが発明したものであるなら、なおのこと、記号ではなく、「連体形」のように日本語にしてもらいたい。そういう「訳」を読みたいと思った。
*
たなかはヨシフ・ブロツキイの「はいたかの秋の叫び」を「ロシア文化通信 GUN」20(2007年07月31日)で訳している。冒頭の1連。
北西風ははいたかを持ち上げる
灰青の、薄紫の、深紅の、鮮紅の
コネティカットの渓谷の上空で。はいたかはもはや
目撃しない、おんぼろ農場の中庭を
めんどりが舌鼓をうちながら散歩するのを、
畦道の畑栗鼠を。
2行目「灰青の、薄紫の、深紅の、鮮紅の」の「の」の繰り返し、たたみかけが美しい。