柴田千晶「死霊」(「街」64、2007年04月01日発行)
俳句はよくわからない。よくわからないけれど「死霊」というタイトルをもった7句のなかではこの句が一番印象が強い。たぶん「や」という切れ字がきいているのだ。「死後残るホームページ」と「黄水仙」には、ほんらい何のつながりもない。すでに切れいてる。その切れた二つの存在が「や」という切れ字によって「切れ」が強調されるとき、その「切れ」て存在するということの美しさが浮かび上がる。「黄水仙」という自然は非情である。非情というのは、ようするに「人情」なんか関係ないということである。人情なんか関係ないものが世界をつくっている。そういう非情な世界で、人間は「人情」を求めて生きている。ホームページなんかつくったり、こういうブログを書いてりして。そういう人情のさまざまをさっと振り払って屹立する黄水仙。
この句に比べると、たとえば
「漢」は「おとこ」だろうか。男の仏ばかりという意味だろうか。そう思って私は読んだのだが、「おとこ」「埋もれる」「雪」が「切れ字」を含むにもかかわらず、強い粘着力でつながっている。そのことばの響き合いに、私は窮屈な感じを覚える。
この句のよさ、おかしみは「馬跳びのひとりは死霊」にある。「馬跳び」と「死霊」の配合の妙にある。それで終わればいいのだが、「大枯野」が邪魔をする。「馬跳びのひとりは死霊」のなかにすでに「切れ」が含まれている。こっけい、というものはそういうものである。そのせっかくの「切れ」を「大枯野」が埋めてしまう。この句は「大枯野」を取り去ると傑作になる。そんな予感がある。
発行日はいつかわからないが「俳句文芸」3月号にも柴田は「赤き毛皮」というタイトルで句を書いている。(コピーを読んだ。)最初の2句がおもしろかった。そして、それをおもしろいと思うのは、私が俳句を書いていないからかもしれない。門外漢だからかもしれない。
「体重計」の句は、どう読むのだろうか。「体重計/孤島のごとし雪の夜」だろうか。「体重計孤島のごとし/雪の夜」だろうか。「/」は「切れ」の位置である。
同じく「クラリネット」の句はどう読むのだろうか。「クラリネットは/男の背骨寒かりき」か「クラリネットは男の背骨/寒かりき」だろうか。
俳句の基本を知っている人には「切れ」の位置は明確だろう。だが、私にはわからない。そしてわからないから、自分勝手に読む。
家のなかにぽつんと置かれた体重計。外は雪。ぽつんと置かれている「人情」(ぽつんとほうりだしてある柴田の事情)と、そんなことには関わり合いのない「雪」。それがおもしろい。
「クラリネットは」と言おうとして、一瞬の「間」が生まれる。「間」は「魔」手あり、「切れ」である。うまく言えないものを力でねじ伏せて「男の背骨寒かりき」と動くことば。そのときの「間」の揺らぎのようなもの。
書けないものが、書けないまま、そこにほうりだされて、存在している。それがおもしろい。
また、
は、あたたかな肉体感覚がとても印象的だ。「インコの頭」というはげしい字余りが、どうしてもそれを書きたいという欲望のようなものを感じさせて、笑いたくなる。(楽しい、という意味です。)しかし、「朧夜の」の「の」が重たいと思う。「朧夜」という季語を独立させる方がよくはないか。「切れ字」で切ってしまった方が空間が広々とすると思う。
言いたいことはよくわかるけれど、「切れ」の位置が窮屈である。「まくなぎ」という季語で切れてほしい。「に」では「意味」になってしまう。
しかし、これも門外漢の感想なので、俳句を専門に読んでいる人からみると、とんちんかんな感想かもしれない。
死後残るホームページや黄水仙
俳句はよくわからない。よくわからないけれど「死霊」というタイトルをもった7句のなかではこの句が一番印象が強い。たぶん「や」という切れ字がきいているのだ。「死後残るホームページ」と「黄水仙」には、ほんらい何のつながりもない。すでに切れいてる。その切れた二つの存在が「や」という切れ字によって「切れ」が強調されるとき、その「切れ」て存在するということの美しさが浮かび上がる。「黄水仙」という自然は非情である。非情というのは、ようするに「人情」なんか関係ないということである。人情なんか関係ないものが世界をつくっている。そういう非情な世界で、人間は「人情」を求めて生きている。ホームページなんかつくったり、こういうブログを書いてりして。そういう人情のさまざまをさっと振り払って屹立する黄水仙。
この句に比べると、たとえば
漢ばかり埋もれし谷やぼたん雪
「漢」は「おとこ」だろうか。男の仏ばかりという意味だろうか。そう思って私は読んだのだが、「おとこ」「埋もれる」「雪」が「切れ字」を含むにもかかわらず、強い粘着力でつながっている。そのことばの響き合いに、私は窮屈な感じを覚える。
馬跳びの一人は死霊大枯野
この句のよさ、おかしみは「馬跳びのひとりは死霊」にある。「馬跳び」と「死霊」の配合の妙にある。それで終わればいいのだが、「大枯野」が邪魔をする。「馬跳びのひとりは死霊」のなかにすでに「切れ」が含まれている。こっけい、というものはそういうものである。そのせっかくの「切れ」を「大枯野」が埋めてしまう。この句は「大枯野」を取り去ると傑作になる。そんな予感がある。
発行日はいつかわからないが「俳句文芸」3月号にも柴田は「赤き毛皮」というタイトルで句を書いている。(コピーを読んだ。)最初の2句がおもしろかった。そして、それをおもしろいと思うのは、私が俳句を書いていないからかもしれない。門外漢だからかもしれない。
体重計孤島のごとし雪の夜
クラリネットは男の背骨寒かりき
「体重計」の句は、どう読むのだろうか。「体重計/孤島のごとし雪の夜」だろうか。「体重計孤島のごとし/雪の夜」だろうか。「/」は「切れ」の位置である。
同じく「クラリネット」の句はどう読むのだろうか。「クラリネットは/男の背骨寒かりき」か「クラリネットは男の背骨/寒かりき」だろうか。
俳句の基本を知っている人には「切れ」の位置は明確だろう。だが、私にはわからない。そしてわからないから、自分勝手に読む。
体重計孤島のごとし/雪の夜
クラリネットは/男の背骨寒かりき
家のなかにぽつんと置かれた体重計。外は雪。ぽつんと置かれている「人情」(ぽつんとほうりだしてある柴田の事情)と、そんなことには関わり合いのない「雪」。それがおもしろい。
「クラリネットは」と言おうとして、一瞬の「間」が生まれる。「間」は「魔」手あり、「切れ」である。うまく言えないものを力でねじ伏せて「男の背骨寒かりき」と動くことば。そのときの「間」の揺らぎのようなもの。
書けないものが、書けないまま、そこにほうりだされて、存在している。それがおもしろい。
また、
朧夜の掌を押し返すインコの頭
は、あたたかな肉体感覚がとても印象的だ。「インコの頭」というはげしい字余りが、どうしてもそれを書きたいという欲望のようなものを感じさせて、笑いたくなる。(楽しい、という意味です。)しかし、「朧夜の」の「の」が重たいと思う。「朧夜」という季語を独立させる方がよくはないか。「切れ字」で切ってしまった方が空間が広々とすると思う。
まくなぎに顔消されゆく帰郷かな
言いたいことはよくわかるけれど、「切れ」の位置が窮屈である。「まくなぎ」という季語で切れてほしい。「に」では「意味」になってしまう。
しかし、これも門外漢の感想なので、俳句を専門に読んでいる人からみると、とんちんかんな感想かもしれない。