有馬敲「『源氏物語』と庶民生活」(「イリヤ」創刊号、2007年07月14日発行)
「夕顔」の、庶民の「声」の出てくる部分と現代語訳を比較している。有馬が参考にしている原文は『大島本』翻刻。問題の部分は、
「あはれ」以下を与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一の3人が、複数の声でなく単数でくくっている--と指摘し、そのことに疑問を投げかけている。(庶民のことばに訳されていないことにも疑問を投げかけている。)
円地文子の訳もひとくくりである。瀬戸内寂聴は「あはれ」と「今年こそ」を二人の会話にしている。それでよいのか、というのが有馬の疑問である。
もうひとり中井和子の訳も取り上げている。それは3人の会話になっている。
中井の訳は京都弁がつかわれており、3人の会話になってる。これが正しいのでは、というのが有馬の説だと推測できる。
なるほどねえ、と思いながらも、私は有馬の論には、あまり与したくない。
3人が会話しているときは、たしかに現代の国語教育(作文教育)では3人分のカギ括弧が必要かもしれない。しかし、現代の国語教育がそうだからといって、与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子の表記が不適切と言えるかどうか。
会話は必ずしもカギ括弧でわかるように書き分けなければならないわけでもないだろう。
たとえば大江健三郎賞をとった長嶋有の「夕子ちゃんの近道」。このブログにも書いたことだが、その会話表記は少し変わっている。新潮社版の44ページ。
実際に「声」に出された部分はカギ括弧、「声」には出さなかったけれどこころで思った部分はカギ括弧につづけて「地」の文として書かれている。長嶋は厳密に区分けして書いているようだが、読者は「地」の部分も「声」として聞き取ってしまう。主人公が思ったことは、「声」に出そうが出すまいが、主人公の「声」だからである。そして会話というものは、「声」にだした部分だけで成り立っているのではなく、「声」に出さなかった部分からも成り立っている。カギ括弧に含まれていないから、その「声」は会話ではないと判断して読むと、この小説は成り立たなくなる。
カギ括弧のもっている意味を現代の国語教育の基準で判断してしまうのは、小説の読み方として不十分であると思う。
源氏物語の訳に戻る。
光源氏は女のもとに一泊した翌朝、先に引用した「会話」を聞く。それが「声々」とあるからたしかに複数なのだろうけれど、光源氏にとって「複数」であり得たかどうかを問題にしなければならない。
光源氏は女をひとりひとり区別している。生活の場を同じくしている「貴族」の男もひとりひとり区別しているだろう。しかし、庶民は? 庶民の男は? ひとりひとりを区別していないかもしれない。庶民の男だからひとりひとりを区別しないのは「差別」かもしれないが、そういう意識はカギ括弧は会話をあらわすという現代国語教育の意識と同じく、きわめて「現代的」なものである。
光源氏はたしかに複数の声を聞くのだが、その意味内容はひとりひとりの個性を明らかにするものではない。単に庶民がこんなことを言っている、というひとまとめのものにすぎない。だれが「ああ寒い」と言ったのか、だれが「田舎回りもあてにならない」と言ったのか、そしてだれが「北隣りさん、聞こえますか」と言ったのか、そんなことを識別する必要はない。識別する必要のないものは、ひとくくりにしてしまう。それは、ある意味で小説文体の「経済学」である。
与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子は、そうした小説の「経済学」(文体論)にのっとって訳しているだけのように私には思える。
そして、私には、与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子の訳の方が、源氏の気持ちを適切にあらわしていると感じられる。中井の訳では、そのことばを源氏がどのように受け止めたかを、もう一度自分自身で整理しなおさなくてはならない。これは、ある意味で、読者に余分な負担を強いることである。読者の「経済学」にとって、こういうことはあまりうれしいことではない。
「などと言っている」(与謝野)「言い合っている」(谷崎)「話合っている」(船橋)「話し合う」(円地)という文を読めば、それが正確に聞き取る必要のないもの、複数のひとの会話であることがわかる。それで十分だろう。
3人の会話が3人のそれぞれの声として独立して表現されなければならないのは、その3人のうちのだれか特定のひとりの発言が光源氏の精神に(行動に)影響を与えるときのみである。3人のうちのだれかが特定される必要があるときは、その特定ができるように書くし、必要がないときは特定されないように書いても何も不思議はない。
「夕顔」の、庶民の「声」の出てくる部分と現代語訳を比較している。有馬が参考にしている原文は『大島本』翻刻。問題の部分は、
隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まし「あはれ、いと寒しや」、「今年こそなりはひにも頼む所すくろく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ、北殿こそ、聞きたまふや」など、言ひかわすも聞こゆ。
「あはれ」以下を与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一の3人が、複数の声でなく単数でくくっている--と指摘し、そのことに疑問を投げかけている。(庶民のことばに訳されていないことにも疑問を投げかけている。)
円地文子の訳もひとくくりである。瀬戸内寂聴は「あはれ」と「今年こそ」を二人の会話にしている。それでよいのか、というのが有馬の疑問である。
もうひとり中井和子の訳も取り上げている。それは3人の会話になっている。
隣の家々の、あやしい賤男たちが目をさます声がして、
「ああ、えろう寒い」「今年は、実入りの方もさっぱりで、田舎回りもあてにならんし、心細いこっちゃ」「北隣さん、お聞きどすか」
などと言い交わしているのどす。
中井の訳は京都弁がつかわれており、3人の会話になってる。これが正しいのでは、というのが有馬の説だと推測できる。
なるほどねえ、と思いながらも、私は有馬の論には、あまり与したくない。
3人が会話しているときは、たしかに現代の国語教育(作文教育)では3人分のカギ括弧が必要かもしれない。しかし、現代の国語教育がそうだからといって、与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子の表記が不適切と言えるかどうか。
会話は必ずしもカギ括弧でわかるように書き分けなければならないわけでもないだろう。
たとえば大江健三郎賞をとった長嶋有の「夕子ちゃんの近道」。このブログにも書いたことだが、その会話表記は少し変わっている。新潮社版の44ページ。
「それよりも、お風呂のかきまぜ棒いらない」風呂道具といわずにはじめからそういえばいいのに。
「うち、風呂ないですよ」銭湯ですよ、知ってるでしょう。
実際に「声」に出された部分はカギ括弧、「声」には出さなかったけれどこころで思った部分はカギ括弧につづけて「地」の文として書かれている。長嶋は厳密に区分けして書いているようだが、読者は「地」の部分も「声」として聞き取ってしまう。主人公が思ったことは、「声」に出そうが出すまいが、主人公の「声」だからである。そして会話というものは、「声」にだした部分だけで成り立っているのではなく、「声」に出さなかった部分からも成り立っている。カギ括弧に含まれていないから、その「声」は会話ではないと判断して読むと、この小説は成り立たなくなる。
カギ括弧のもっている意味を現代の国語教育の基準で判断してしまうのは、小説の読み方として不十分であると思う。
源氏物語の訳に戻る。
光源氏は女のもとに一泊した翌朝、先に引用した「会話」を聞く。それが「声々」とあるからたしかに複数なのだろうけれど、光源氏にとって「複数」であり得たかどうかを問題にしなければならない。
光源氏は女をひとりひとり区別している。生活の場を同じくしている「貴族」の男もひとりひとり区別しているだろう。しかし、庶民は? 庶民の男は? ひとりひとりを区別していないかもしれない。庶民の男だからひとりひとりを区別しないのは「差別」かもしれないが、そういう意識はカギ括弧は会話をあらわすという現代国語教育の意識と同じく、きわめて「現代的」なものである。
光源氏はたしかに複数の声を聞くのだが、その意味内容はひとりひとりの個性を明らかにするものではない。単に庶民がこんなことを言っている、というひとまとめのものにすぎない。だれが「ああ寒い」と言ったのか、だれが「田舎回りもあてにならない」と言ったのか、そしてだれが「北隣りさん、聞こえますか」と言ったのか、そんなことを識別する必要はない。識別する必要のないものは、ひとくくりにしてしまう。それは、ある意味で小説文体の「経済学」である。
与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子は、そうした小説の「経済学」(文体論)にのっとって訳しているだけのように私には思える。
そして、私には、与謝野晶子、谷崎潤一郎、船橋聖一、円地文子の訳の方が、源氏の気持ちを適切にあらわしていると感じられる。中井の訳では、そのことばを源氏がどのように受け止めたかを、もう一度自分自身で整理しなおさなくてはならない。これは、ある意味で、読者に余分な負担を強いることである。読者の「経済学」にとって、こういうことはあまりうれしいことではない。
「などと言っている」(与謝野)「言い合っている」(谷崎)「話合っている」(船橋)「話し合う」(円地)という文を読めば、それが正確に聞き取る必要のないもの、複数のひとの会話であることがわかる。それで十分だろう。
3人の会話が3人のそれぞれの声として独立して表現されなければならないのは、その3人のうちのだれか特定のひとりの発言が光源氏の精神に(行動に)影響を与えるときのみである。3人のうちのだれかが特定される必要があるときは、その特定ができるように書くし、必要がないときは特定されないように書いても何も不思議はない。