谷川俊太郎「「午後おそく」による十一の変奏」(「現代詩手帖」2007年08月号)
1950年01月09日に書かれた「午後おそく」を冒頭に掲げ、十一の「変奏」を書いている。(他にルイス・キャロルからの引用をひとつ加えている。)
1950年の作品と今書かれた作品のあいだに「差」がない。谷川俊太郎は一貫して谷川俊太郎という「詩人」を生きている。
その特徴が一番よくでているのが第2の「変奏」である。
「ヒトも空へと背伸びし/宇宙にさまよい出てゆくが」が谷川である。「宇宙」が登場するからではない。「ヒトも空へと背伸びし」という木と人間とを同化させる方法が谷川なのである。谷川は、ここでは「空へ伸びてゆく」木へ、何の疑いも挟まずに「自己同化」を試みている。「空へ伸びてゆく」木に対抗して、地中へ、闇へ根を張る、という形で「自己同化」する方法があるはずなのに、そういう形での「自己同化」という出発はしない、というのが谷川である。明るさの「肯定」がまず最初にあるのだ。ある存在、木なら木を明るい方向へ肯定し、その肯定にそって自己を拡大する形で「自己同化」を試みる。いのちへの信頼、拡大してゆくことへの信頼のようなものが谷川の基本である。
「同化」を拒む、ということばの動きも、もちろんある。ある存在に対抗しながら自己を拡大してゆくという作品もある。
たとえば3つめの「変奏」。谷川は女と対話している。
女が言う「影」が、たとえば「木」にとっての「地中」である。女は空を目指すという形で木を把握する男に対して「なぜ明るい方向だけを見るの? なぜ、地中を見ない? そこにも根という形の木のいのちがあるのに」と言っているに等しい。
これに対する「男」の答えには、谷川の「かなしみ」が深くやどっている。
男の答えは本当に谷川の声を代弁しているのか。谷川は本当にそう信じているのか。たぶん、違う。思っていないことも、ことばは語ることができる。あることばに対抗して、ことばが無意識に動いてしまう。しかも、その場に論理のあとを正確に残した形で--つまり、他人に「意味」が通じる形で。
谷川のことばは、自然に、そんなふうに動いてしまう。そこには谷川を超えるなにかがある。ことばの運動、ことばの論理--谷川が作り上げたものではなく、人間存在が作り上げてしまった「嘘」の「意味」がある。つねに「明るい」方向をめざしてしまうというかなしみがある。
こうした自覚は、つまり無意識にことばが「論理」(しかも詩的論理)を追いかけて動いてしまうという自覚は、谷川には強くある。だからこそ、そうしたやりとりを引き受けて、女に次のように言わせもする。
さらに男の反論があるのだが、省略する。
3つめの「変奏」ものおもしろいけれど、さらにおもしろいのは、2つめの「変奏」と3つめの「変奏」の関係である。
2つめは「肯定」を生きている。3つめは「否定」に対抗して生きている。「否定」から立ち直ろうとして動いている。
そして、純粋な「肯定」と、「否定」を「否定」した形の「肯定」が横に並ぶとき(隣り合うとき)、そこに「肯定」の密度の差のようなものがあらわれ、それが「年輪」をつくりだす。
「年輪」というものは、ひとつの動きではない。「急成長」と「緩慢な成長」という「差」(成長密度の違い)が「年輪」となってあらわれる。それと似た感じで、人間の「年輪」も純粋な「肯定」と「否定を否定する形の肯定」を描くことで、ことばの濃度(密度)をつくり他し、人間のある瞬間瞬間の「幅」を浮かび上がらせる。それが「詩」にとっての「年輪」である。
木にかこつけて読めば(深読みすれば)「肯定」が垂直の上昇方向、「否定の否定という形の肯定」が垂直の下降方向ではなく、水平の拡大方向をとっている点が、谷川の、さらに谷川らしさである。あくまで広さを求めている。拡大してゆく。垂直の上昇、水平の拡大--それが組み合わさって谷川をつくりあげる。
谷川は宇宙へさまよい出てゆく人間の記録は「年輪のような/中心をもたない」と書くが、それは谷川にとって中心が自覚できないということであろう。中心がないと感じるのは、谷川のことばの方向が、水平方向にのみ運動するからではない。谷川のことばは上昇方向と水平方向を組み合わせて拡大する。「年輪」は、木の場合、垂直の方向に伸びたものを水平に切ったときにあらわれてくるが、谷川の場合は、そんな具合には見えて来ない。もし、どうしても「年輪」という比喩にこだわるなら、谷川という「木」を地上から天へのびる木という形ではなく、まんまるな「球」という形で想像するしかない。膨脹する「球」を想像するしかない。
「球」のなかに重なったいくつもの「層」、地球の地層のようにできた「年輪」がある。地球の一部分を断面化しても水平の地層しか見えない。しかし、もし地球を丸切りにすることができれば、その断片的な地層がつながって「年輪」のように丸くなっているのがわかるだろう。同じように、谷川という世界をもし「球」の形にとらえなおして丸切りにすることができれば、同じような「年輪」に出会えるだろう。
1950年01月09日に書かれた「午後おそく」を冒頭に掲げ、十一の「変奏」を書いている。(他にルイス・キャロルからの引用をひとつ加えている。)
1950年の作品と今書かれた作品のあいだに「差」がない。谷川俊太郎は一貫して谷川俊太郎という「詩人」を生きている。
その特徴が一番よくでているのが第2の「変奏」である。
木は空へと伸びてゆく
年輪に自分を記録しながら
ヒトも空へと背伸びし
宇宙にさまよい出てゆくが
その記録は年輪のような
中心をもたない
かたむきかけた日の光に
梢は天を指す金色の矢印
私は木に添いたい
中心にある誕生の瞬間が
垂直に宇宙へ通じていると
信じて
「ヒトも空へと背伸びし/宇宙にさまよい出てゆくが」が谷川である。「宇宙」が登場するからではない。「ヒトも空へと背伸びし」という木と人間とを同化させる方法が谷川なのである。谷川は、ここでは「空へ伸びてゆく」木へ、何の疑いも挟まずに「自己同化」を試みている。「空へ伸びてゆく」木に対抗して、地中へ、闇へ根を張る、という形で「自己同化」する方法があるはずなのに、そういう形での「自己同化」という出発はしない、というのが谷川である。明るさの「肯定」がまず最初にあるのだ。ある存在、木なら木を明るい方向へ肯定し、その肯定にそって自己を拡大する形で「自己同化」を試みる。いのちへの信頼、拡大してゆくことへの信頼のようなものが谷川の基本である。
「同化」を拒む、ということばの動きも、もちろんある。ある存在に対抗しながら自己を拡大してゆくという作品もある。
たとえば3つめの「変奏」。谷川は女と対話している。
「あなたは素通しの硝子ね」
と女が言う
「光を自分の中にとどめておけないのよ
影がこわくて」
「きみは鏡だな」
と男が言う
「光をすべて反射してしまう
きみも光がこわいのかな」
女が言う「影」が、たとえば「木」にとっての「地中」である。女は空を目指すという形で木を把握する男に対して「なぜ明るい方向だけを見るの? なぜ、地中を見ない? そこにも根という形の木のいのちがあるのに」と言っているに等しい。
これに対する「男」の答えには、谷川の「かなしみ」が深くやどっている。
男の答えは本当に谷川の声を代弁しているのか。谷川は本当にそう信じているのか。たぶん、違う。思っていないことも、ことばは語ることができる。あることばに対抗して、ことばが無意識に動いてしまう。しかも、その場に論理のあとを正確に残した形で--つまり、他人に「意味」が通じる形で。
谷川のことばは、自然に、そんなふうに動いてしまう。そこには谷川を超えるなにかがある。ことばの運動、ことばの論理--谷川が作り上げたものではなく、人間存在が作り上げてしまった「嘘」の「意味」がある。つねに「明るい」方向をめざしてしまうというかなしみがある。
こうした自覚は、つまり無意識にことばが「論理」(しかも詩的論理)を追いかけて動いてしまうという自覚は、谷川には強くある。だからこそ、そうしたやりとりを引き受けて、女に次のように言わせもする。
「なんだか気恥ずかしい台詞ね」
と女が言う
「光は理性の暗喩のつもりかしら」
さらに男の反論があるのだが、省略する。
3つめの「変奏」ものおもしろいけれど、さらにおもしろいのは、2つめの「変奏」と3つめの「変奏」の関係である。
2つめは「肯定」を生きている。3つめは「否定」に対抗して生きている。「否定」から立ち直ろうとして動いている。
そして、純粋な「肯定」と、「否定」を「否定」した形の「肯定」が横に並ぶとき(隣り合うとき)、そこに「肯定」の密度の差のようなものがあらわれ、それが「年輪」をつくりだす。
「年輪」というものは、ひとつの動きではない。「急成長」と「緩慢な成長」という「差」(成長密度の違い)が「年輪」となってあらわれる。それと似た感じで、人間の「年輪」も純粋な「肯定」と「否定を否定する形の肯定」を描くことで、ことばの濃度(密度)をつくり他し、人間のある瞬間瞬間の「幅」を浮かび上がらせる。それが「詩」にとっての「年輪」である。
木にかこつけて読めば(深読みすれば)「肯定」が垂直の上昇方向、「否定の否定という形の肯定」が垂直の下降方向ではなく、水平の拡大方向をとっている点が、谷川の、さらに谷川らしさである。あくまで広さを求めている。拡大してゆく。垂直の上昇、水平の拡大--それが組み合わさって谷川をつくりあげる。
谷川は宇宙へさまよい出てゆく人間の記録は「年輪のような/中心をもたない」と書くが、それは谷川にとって中心が自覚できないということであろう。中心がないと感じるのは、谷川のことばの方向が、水平方向にのみ運動するからではない。谷川のことばは上昇方向と水平方向を組み合わせて拡大する。「年輪」は、木の場合、垂直の方向に伸びたものを水平に切ったときにあらわれてくるが、谷川の場合は、そんな具合には見えて来ない。もし、どうしても「年輪」という比喩にこだわるなら、谷川という「木」を地上から天へのびる木という形ではなく、まんまるな「球」という形で想像するしかない。膨脹する「球」を想像するしかない。
「球」のなかに重なったいくつもの「層」、地球の地層のようにできた「年輪」がある。地球の一部分を断面化しても水平の地層しか見えない。しかし、もし地球を丸切りにすることができれば、その断片的な地層がつながって「年輪」のように丸くなっているのがわかるだろう。同じように、谷川という世界をもし「球」の形にとらえなおして丸切りにすることができれば、同じような「年輪」に出会えるだろう。