詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中郁子『ナナカマドの歌』

2007-08-09 14:28:54 | 詩集
 田中郁子『ナナカマドの歌』(思潮社、2007年07月31日発行)
 どの詩にも繰り返し繰り返しこころのなかで書いてきた記憶のぬくみのようなものがある。こころのなかで繰り返すことで、心臓の血が、少しずつことばのなかにしみこんで、温みとなって残っている--という印象がある。
 たとえば「そのままの朝」。

古い家の台所にはそのままの朝がある
敗戦後わたしが中学生だった頃
食べるものも着るものも貧しかった時代の雪の朝
母はいつものようにカマドでご飯を炊いていた
めらめら燃える炎の前でなぜか泣いていた
父はすこし離れたところで行ったり来たりしていた

夕方山から帰った父は獲物の雉を手にしていた
わたしはまだ温もりのある雉の暗緑の羽に触った
それから羽をむしる父の手さばきをみていた
貴重な食肉だった骨まで砕いてまるくまるめた
母は雪の畑から大根をほりだし七輪に炭を置いた
朝の争いが何であったか解らないまま胃の腑はみたされていった

戦後は薄れていくが消えるのではないそのままの朝に
そっと体を入れるとひび割れたカマドが燃えはじめる
あの日涙した女もうろうろした男もあわてて去った気配がして
しかしその気配だけは完全にわたしのものだった

 ある朝の情景。母と父が争ったあとの情景。それを何度も何度も田中はころのなかで繰り返した。それは田中の姿を感じたとたんに争いを中断した母と父の姿でもある。争いを中断し、母は涙を流している。争いを中断し、父はことば(怒り)をどこへやっていいかわからずうろうろしている。そこには争いが中断した気配だけが残っている。争いそのものは母と父の体のなかへ引き返して行ったのだ。
 その気配。繰り返し繰り返し思い出し、繰り返している内に、内容が断定できないまま、ひとつの世界になっていく。温かい日常になってゆく。おそらく母と父は食べ物のことで争ったのだろう。その争いは、ありきたりのものである。父は、こんなものしかないのか、云々。母は、だった何も買えやしない、云々。そのあと、父は山で苦労して雉をつかまえてくる。--二人は、田中に、食べ物や金のことで争っている姿を見せたくなかった。そういうありふれた戦後の情景。
 もちろん、私の推測が正しいわけではない。田中が同じように、そんなことを想像したとはどこにも書いていない。書いていないけれど「あの日涙した女もうろうろした男もあわてて去った気配がして/しかしその気配だけは完全にわたしのものだった」の2行で繰り返される「気配」が、そういう情景をひき出してくる。
 子供に争いを見せない、貧しさを見せない、大人のつらさを見せない--そういう生き方を、大人になった今、田中は暮らしのなかで繰り返し繰り返し自分自身のものとして体験してきたのだろう。ふとした瞬間に母と父の争いのあとの情景、争いがあったという気配だけの情景を繰り返し思い出すことによって、母と父の生き方そのものを繰り返し、そうすることで自分自身の生き方として受け継いだのだろう。
 そして、この「受け継ぎ」の瞬間、田中のなかでは、母と父がもう一度生まれている。母と父から生まれた田中のなかで、母と父の血が蘇り、同時に母と父が田中から生まれている。
 こうしたいのちの継承を見るとき、いのちというのは「生き方」である、ということがわかる。繰り返されるいのち。それは繰り返される「生き方」でもある。古い「生き方」には時代にそぐわないものもあるかもしれない。そうであっても、そのなかには変わらないものがある。引き継ぐしかないものもある。そういう「生き方」を引き受けるとき、そこに「血」がにじむ。それは母や父が流してきた血(あるいは隠してきた悲しい血)である。田中の詩は、その血のにじみそのものが息づいている。
 「ナナカマドの歌」には

わたしはちちやははから生まれたのでした
けれども ちちやはははわたしから生まれたのでした

という行がある。ちち「と」はは、ではなく、ちち「や」はは。この「や」は対象を限定せず、拡げる。「生き方」は「父と母」からではなく、さまざまないのちの継続のなかで積み重ねられ、磨かれてきたものであることがわかる。「生き方」とは思想なのである。
コメント
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