小池昌代『タタド』(思潮社、2007年07月25日発行)
第33回川端康成賞受賞作「タタド」を含む3篇。(「タタド」「波を待って」「45文字」--「45文字」については2007年04月03日に短い感想を書いた。)
「タタド」が一番おもしろい。文体が統一されていて、すみずみまで「尺度」がかわらない。4人の男女が主人公である。海辺の家に集まる。そうして、起きるようなことが、起きる。(大庭みな子の「三匹の蟹」をちょっと連想した。)
この小説がおもしろいのは、4人が4人ともしっかりした肉体を持っていることである。肉体の感覚が小説のなかにさらりと溶け込んでいる。
この4人の感じ、引用した部分の「思い」は会話のなかでは出てこない。つまり、それぞれの「こころ」のなかにある声である。そのことばにならない「声」が視線となって交錯する。誰も思っていることをことばにしないのに、どこかで、今、ここにいる4人の関係が「いつわり」というといいすぎになるけれど、けっして安定したものではないことを感じあう。偶然のもの、任意のものにすぎない、ということを感じ取ってしまう。
帯に「海辺の家に集まった男女四人。倦怠と甘やかな視線が交差して、やがて朝になると、その関係は一気に「決壊」する--。」とある。
「決壊」というよりも、イワモトが感じていた肉体の感覚を援用すれば、「関係が伸びたり縮んだりする」ということになると思う。4人の関係はあいかわらずそのままであり、その距離が伸び縮みする。その朝まで、4人がそれぞれの肉体感覚を守り通しているからこそ、朝、偶然はじまったダンス--肉体の触れ合いから、距離が伸び縮みする。それまで離れていたものが接触することで、「こころの距離」であったものが、「肉体の距離」に変化し、その変化のなかで、もういちど「こころの距離」をつくりなおすということがはじまる。伸び縮みしながら、水平方向へも垂直方向へもひろがっていく、という感じなのだ。
伸び縮みのあいだにかわされることば--その距離の不思議さ。それが、どこまでもひろがって行く感じが象徴的にあらわれている。
こうした感じが残るのは、くりかえしになるが、小池が4人の肉体、その感覚をていねいにことばに定着させているからだ。肉体をもった人間として描くことに成功しているからだ。
*
「波を待って」では、主人公が夫の背中に日焼け止めクリームを塗りながら、潮汁をつくったことを思いだすシーンがとても魅力的だ。
小池は触覚が鋭敏なのだろう。「タタド」の官能もダンスという肉体の接触からはじまった。触れることは、自分の命が押し返されること。そして、それへの反発というか、対抗があり、距離がゆらぐ。ひろがる。新しい世界がはじまる、ということなのだろう。
触覚は亜子の夫のサーフィンボードによせる思いのなかにも出てくる。サーフィンボードについて、彼は次のように言う。
小池は「こころ」に触りながらではなく、「肉体」に触りながら、ことばの距離を正確に測り、小説世界の構築をめざしているのだと感じた。
第33回川端康成賞受賞作「タタド」を含む3篇。(「タタド」「波を待って」「45文字」--「45文字」については2007年04月03日に短い感想を書いた。)
「タタド」が一番おもしろい。文体が統一されていて、すみずみまで「尺度」がかわらない。4人の男女が主人公である。海辺の家に集まる。そうして、起きるようなことが、起きる。(大庭みな子の「三匹の蟹」をちょっと連想した。)
この小説がおもしろいのは、4人が4人ともしっかりした肉体を持っていることである。肉体の感覚が小説のなかにさらりと溶け込んでいる。
1 イワモト
ここのトイレは風呂場のように広い。満足かというと、実はよくわからない。身体には狭い空間感覚がしみついているので、つい、ちょこまかと遠慮がちな動きになる。眠るときも海老のように丸くなって、ああ、ここではもういいんだよ、伸び伸びしなさい、と自分に言い聞かす始末である。ふたつの家を往復することで、イワモトは自分が伸びたり縮んだりする奇妙な感覚を味わっている。
2 スズコ
スズコは誰にも言わなかったけれど、癖のような一つの病があった。ひどく衝かれると、そこらへんをふつうに歩いているひとびとが、みんな薄紙でできた人間の模型のように見えてしまうのだ。紙人間は平面的で、みな、不気味にそよぐように泳いでいる。それがこわくてたまらない。
3 オカダ
タマヨが来ると聞いてから、オカダはなんとなくそわそわしていたのだが、本当に来て実物を見ても、最初は実感がわかなかった。目鼻のつくりよりもなによりも、その濃い空気に魅せられた。
4 タマヨ
スズコの家に行くと、表向きはさりげなく、つい目が探すような感じになってしまう。そしてよく、イワモトとスズコのふたりが死んでしまったときのことを想像した。そうしたら、心ゆくまですみずみまで探せるのに。そのとききっと、いままでタマヨがなくしたモノのすべてが、あちらからこちらから、次々に現れ出でる! ああ、こんなところに! こんなところにも! そこまでを想像してうっとりする。
この4人の感じ、引用した部分の「思い」は会話のなかでは出てこない。つまり、それぞれの「こころ」のなかにある声である。そのことばにならない「声」が視線となって交錯する。誰も思っていることをことばにしないのに、どこかで、今、ここにいる4人の関係が「いつわり」というといいすぎになるけれど、けっして安定したものではないことを感じあう。偶然のもの、任意のものにすぎない、ということを感じ取ってしまう。
帯に「海辺の家に集まった男女四人。倦怠と甘やかな視線が交差して、やがて朝になると、その関係は一気に「決壊」する--。」とある。
「決壊」というよりも、イワモトが感じていた肉体の感覚を援用すれば、「関係が伸びたり縮んだりする」ということになると思う。4人の関係はあいかわらずそのままであり、その距離が伸び縮みする。その朝まで、4人がそれぞれの肉体感覚を守り通しているからこそ、朝、偶然はじまったダンス--肉体の触れ合いから、距離が伸び縮みする。それまで離れていたものが接触することで、「こころの距離」であったものが、「肉体の距離」に変化し、その変化のなかで、もういちど「こころの距離」をつくりなおすということがはじまる。伸び縮みしながら、水平方向へも垂直方向へもひろがっていく、という感じなのだ。
「あとでまた、交代しましょう」
(略)
「ええ、そうしましょう」
伸び縮みのあいだにかわされることば--その距離の不思議さ。それが、どこまでもひろがって行く感じが象徴的にあらわれている。
こうした感じが残るのは、くりかえしになるが、小池が4人の肉体、その感覚をていねいにことばに定着させているからだ。肉体をもった人間として描くことに成功しているからだ。
*
「波を待って」では、主人公が夫の背中に日焼け止めクリームを塗りながら、潮汁をつくったことを思いだすシーンがとても魅力的だ。
火にかけた鍋のなかで、蛤たちが、次々と口を開くのを亜子は待っていた。いよいよというとき、おたまで鍋のなかをかきまわそうとすると、ちょうど、ひとつがぱくりと口をあけ、亜子がぼんやりと握っていたおたまを、ぐいと上に押しやった。そこ、どいてくれよ、というように。亜子は驚き、その柔らかく決然とした拒絶の力に、自分の命が押し返されたように思った。それは驚くほど官能的な触覚だった。
小池は触覚が鋭敏なのだろう。「タタド」の官能もダンスという肉体の接触からはじまった。触れることは、自分の命が押し返されること。そして、それへの反発というか、対抗があり、距離がゆらぐ。ひろがる。新しい世界がはじまる、ということなのだろう。
触覚は亜子の夫のサーフィンボードによせる思いのなかにも出てくる。サーフィンボードについて、彼は次のように言う。
卵の殻みたいなもんなんだから、すぐに傷つくんだ。ものをぶつけたりしないように大切に触ってくれよ。
小池は「こころ」に触りながらではなく、「肉体」に触りながら、ことばの距離を正確に測り、小説世界の構築をめざしているのだと感じた。