詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行『ライフ』

2007-08-01 07:54:14 | 詩集
 今井義行『ライフ』(思潮社、2007年07月31日発行)
 「珈琲屋にて」。コーヒー店で詩集を読む。

ここからの 宇宙に 三日月が出ています

 「宇宙」は夜空のことなのか。それとも詩集の本文のことなのか、すこしわからない。「夜空」というよりも詩集そのものと読みたい気持ちになってくる。

カーテンの 端に
夜の 蜘蛛がいた

 これも詩集のなかの描写と読みたい。そんなふうにして読むと、

まっしろな紙の上に
ことばが載っていると
とても きれいですね

 この3行が私には納得が行く。ことば、しかも「きれい」なことばをとおして今井は世界とつながっていたいと願っているのだろう。醜いことば、残酷なことば、悲惨なことばをとおして世界とはつながりたくはないのかもしれない。

それは ことばの星雲なんだ
とおくにくらす誰かがしるした光でしょう

 これはかなり痛々しい。「とおく」を思ってしまうこころ、「くらす」(暮らし)を思ってしまうこころが痛々しい。
 詩はかならずしも暮らしを描いているわけではないが、そのことばに暮らしを感じるということは、そういう暮らしとつながっていたいという気持ちがあるからだろう。暮らしとつながりたいという気持ちが暮らしを求める。しかも「近く」にではなく、「とおく」に。
 つながっていたい。けれど、束縛はされたくはない。そういう切ないこころの痛みが、それこそしずかに光っている。

 「なぜ痛むの」は今井の作品のなかでは珍しく肉体を描いている。その肉体の描き方がおもしろい。

自転車のまちを霧雨に濡れて走り行く朝に
ああ 脳の中に 水が溜まっている
と 思ったのだった
鍾乳洞のような 頭蓋の奥の方が痛かった

人間(ひと)は心も痛むけれど
身体(にく)も とっても 痛むものだね--

 3行目。「と 思ったのだった」が、たぶん、今井独自の世界である。肉体の痛みを感じたとき、私はわざわざ「と 思ったのだった」とは書かない。言わない。「思った」というふうに一呼吸置くことができない。「思っている」暇がない。ところが、今井は、あくまで「思う」のである。
 肉体は(今井は「身体・にく」ということばをつかっているが)は感情・精神とは違った感じで反応してしまうことがある。直接刺激に対して反応するので、こころや頭を裏切って動いてしまうことがある。私にとっては、そういうものだが、今井は、そうした肉体を「思う」というこころの(精神の、頭脳の)動きのなかで一度整理する。
 これではつらいだろうなあ、と思ってしまう。

 これは肉体が勝手にしたことであって、私は知らない、といってしまえば楽になることがたくさんあるのになあ、と詩集を読みながら感じた。
コメント
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