詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子『道を 小道を』

2007-08-14 11:52:59 | 詩集
 伊藤悠子『道を 小道を』(ふらんす堂、2007年07月25日発行)
 感情を追いかけるだけでなく、追いかけるとは見つめなおすことだということ自覚した詩集だ。文体が非常に成熟している。詩を書く以前に、何度も何度も、こころのなかで(頭のなかで、肉体のなかで)、伊藤自身を見つめなおしてきたのだろう。ことばに書くことはなかったかもしれないけれど、常にことばは動き続けていたのだろう。詩という存在にであって、そうしたことばが静かに定着した。そういう感じの、とてもいい詩集だ。
 巻頭の「たたく」がすばらしい。

「わたしは門のそとに立ち とびらをたたいている」
歌詞を見ながら歌う
岡の林の木の間に隠れない木戸
夕暮れの町に紛れない鎧戸
叩いているのはわたしだと思って歌う
果てもなく絶え間なく


しかし叩いているのは
そのひとだという

どんな姿を纏いわたしを叩いていたのか
叩いているのか
だれかれを思う
しかし
だれかれを思うことも
扉を叩くこと
扉を叩いているのは
わたしではないことだけを思うだけで
よい
冬の空を見ている

 歌のなかの「わたし」に「私=伊藤」を重ねて歌のなかへ入っていく。これは、ごく自然なことだ。歌の気持ち、ことばの気持ちを理解するというのは、ことばのなかの「わたし」と一体になることだから。
 ところが、そうではない、という世界もある。それを伊藤は知った。そこからどんなふうにして、いとう自身をもとに戻すか。間違った「解釈」から正しい「解釈」へ戻るか。
 伊藤は強引には戻らない。強引に自己修正をしない。

だれかれを思うことも
扉を叩くこと

 この2行。その発見がすばらしい。
 扉を叩いている「わたし」は「私=伊藤」ではない。では、だれなんだろう。あれこれ思う(想像する)こと、そのこと自体が「扉を叩く」という行為なのだ。「扉を叩く」のは、扉を叩いているひとがいると、はっきり意識するためなのだ。
 「扉を叩く」という行為のなかに、肉体の動きのなかにすべてがある。
 扉を叩くという行為を、「とびらをたたいている」ということばをとおして反復する。確かめる。そのとき、「わたし」と「私=伊藤」で深く結びつく。なぜ「扉をたたくのか」、その答えを探しながら、歌を繰り返す。
 そして、

扉を叩いているのは
わたしではないことだけを思うだけで
よい

という、伊藤自身の「答え」を見つけ出す。「私=伊藤」意外に、だれかが「扉を叩いている」。生きているのは「私=伊藤」だけではない。他者の存在を知る。(その「他者」とは、あるいは「神」を含むかもしれないが、「神」のことは私はよく知らない。)
 「私=伊藤」がいて、「他者」がいて、「私=伊藤」も「他者」も「扉を叩く」ことができる。扉を叩く事情は、おなじかもしれない。違っているかもしれない。違っていて「扉を叩く」という行為はおなじである。「扉を叩く」とき、「私=伊藤」と「他者」は「事情」を超える。「事情」を超えながら、同時に「事情」の奥底へ深く深くおりてゆく。「こういう事情もある」「ああいう事情もある」……。
 そして、世界がひろがる。

冬の空を見ている

 この終わりもすばらしい。
 人間の(伊藤を含む)の「事情」を超越して、冬の空は存在している。自然、宇宙の超越。そのなかで人間は生きている。勘違いし、勘違いを知らされ、反省し、しかし、「絶対的な真実」にはたどりつけず、「扉を叩いているのは/わたしではないことだけを思うだけで/よい」という具合に、きょうはきょうの「おりあい」をつけて生きている。

 この詩集には、伊藤がそれまでことばにしないで、ただ肉体のなかにしまいこむかたちで「おりあい」をつけてきたものが静かに並べられている。そして、その「おりあい」が「冬の空」のような自然(世界、宇宙)と、これまた静かに向き合っている。
 この静かさをこそ「抒情」と呼びたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする