詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子『道を 小道を』(再々)

2007-08-16 23:34:25 | 詩集
 伊藤悠子『道を 小道を』(再々)(ふらんす堂、2007年07月25日発行)
 このひとの詩は本当におもしろい。おもいしろいということばで感想を書くのをためらうような詩、たとえば「行方」という詩も、私はあえておもしろい、と言いたい。

さいしょは両腕で抱いていた
いつのまにか片腕で抱く小ささになり
すぐに手のひらに移り
またたくまに指先から離れていった
中指にきびがらのような感触が残った
赤ん坊は
あかまんまの野に向かっただろうか
近付いてきたひとに話すと
「それは昔からいる世を渡る赤ん坊のことでしょう」
と言った

 この「赤ん坊」は幼くして亡くなった赤ん坊かもしれない。赤ん坊の記憶を、抱き締めた肉体の記憶、自分の側に残る肉体の記憶を、伊藤は書いているのかもしれない。そうであるなら、「おもしろい」という感想は不適切かもしれない。
 繰り返し繰り返し、亡くなった赤ん坊を思い出す。それはたしかに切ないことなのだけれど、こころの切なさを回復させるように肉体は動くのである。肉体がこころを裏切る(?)ように、少しずつ印象を変えていくのである。
 これはある意味では、赤ん坊を亡くしたことよりも切ないことかもしれない。なぜ、あの大切な重み、命の重みそのものを肉体はいつまでも維持できないのか。そして、その維持できなさに比例するようにこころの切なさも薄れて行くのか……。そんなことがあっていいのか。ほんとうの苦しみがそこにあるかもしれない。切なさを超えた苦悩がそこにあるかもしれない。
 しかし、軽くなっていいのだ。小さくなって、「きびがらのような感触」になってしまっていいのだ。なぜなら、赤ん坊を亡くした女性たちは、亡くなった赤ん坊が「機微がら」になるまで、繰り返し繰り返し、抱き続けたのだから。
 そして、悲しみ、切なさのなかで、「神話」を作り上げたのだ。

「それは昔からいる世を渡る赤ん坊のことでしょう」
 
 赤ん坊を産んだ女性だけのものではなく、世の中のもの、世の中を渡っていく赤ん坊。あの赤ん坊は、私の腕のなかで生きていく赤ん坊ではなく、世の中を渡っていく赤ん坊だったのだという「神話」を生み、その「神話」のなかで、悲しみが昇華するのだ。
 詩のつづき。

ほうぼうのひとに少しのあいだ抱かれていくらしい
得心がいく説明だったから
わたしは荒玉水道通りをあとにした
あれから時は巡っていったけれど
あの小さな渡世人はいまごろどうしているだろう
きのう通りがかった遠い町の
客の少ないパン屋の店先などで
抱かれているかもしれない
駅で眠るひとの腕の中に
もぐり込んでいるかもしれない
きびがらのようなかるさだけを預けて

 「神話」のなかに亡くなった赤ん坊を昇華させたけれど、それは忘れることではない。いつでもしっかりと思い出すための神話なのである。「小さな渡世人」は、ふとした瞬間にいつでも「神話」といっしょにあらわれる。そして女性たちに共有される。

 「神話」というのは多くの場合、男性原理というか「権力原理」と結びついたものであるけれど、伊藤が書いている「神話」は、そういうものとは違う。どんな権力とも無縁の、命を失った悲しみ、そして命を生み出した愛しみ(かなしみ)とともに、ただそこにあるだけのものである。

 すでに2回書いてきたことだけれど、また、ここで書いておきたい。
 伊藤のことばは、繰り返しをへて、簡潔で揺るぎないものになっている。繰り返しのなかで余分なものが少しずつ削りとられ、ていねいに磨き上げた芯だけが強いまま残っている。
 こうした美しいことばは最近の詩集ではとてもめずらしいもの、貴重なものである。ほんとうにいい詩集だ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする