詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『溶ける、目覚まし時計』

2007-08-22 21:40:35 | 詩集
 北川透溶ける、目覚まし時計』(思潮社、2007年07月25日発行)
 「夢をモティーフに」書かれた連作--と北川は「覚書」で書いている。たしかに「夢」が書かれているのだろう。しかし私には、そこには「夢」が書かれているという感じがあまりしなかった。それよりも強い何かがある。「夢」を超える何かがある。それは「夢を語る」ということだ。北川は「夢」をを書くというよりも「夢を語る」ことについて書いている。
 そのことを強く感じさせるのは、次の1行である。

 悪夢の中では文法はめちゃめちゃに壊れます。

 北川が「夢」をモティーフにするのは、「文法」を「めちゃめちゃに壊」すためである。日本語を、つまりは私たちを縛っている文法。それを破壊して、どれだけ自由な文体を確立できるか。北川の試みているのは、それである。
 だが、ほんとうに文法は壊れるのか。先の引用からはじまる行。

 悪夢の中では文法はめちゃめちゃに壊れます。花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花田俊典としのりしゅんてん試運転詩云典死雲天わたしたちは戦争
という自由市場は太った仔豚の尻は舐めていますははははなはなだ
はわたしたちは平和は自由市場で太った子豚に尻は舐められていま
す(以下略)

 たしかにここに書かれていることばは「国語の教科書」の文法とは違っている。しかし、文法が教科書どおりではないから、そこに書かれていることがわからないかといえば、そうではない。いや、正確に言えば、私は北川のいいたいことを(ことばにこめている意味や内容を)理解してはいないかもしれない。誤解しているかもしれない。しかし、誤解とはいえ、そこに「意味」を感じ取ってしまう。北川の書いていることばの「文法」がどうであれ、そんなことを無視して、私のなかの「文法」が勝手に北川の「文法」を修正しながらことばを読んでしまうのである。
 北川は花田俊典の死に衝撃を受けた。「花田俊典」は何と呼ばれていたのだろう。「としのり」が本名かもしれない。しかし「しゅんてん」と仲間うちで呼ばれることもあっただろう。そういうことを北川は思い出している。そして「しゅんてん」から「試運転詩云典死雲天」ということばが生まれて行く。そのことばには何の意味もない。意味もないはずなのに、ことばをそれぞれ「試運転」「詩云典」「死」「雲天」と区切りながら、さらには「詩云典」を「詩」「云(々)」「(俊)典」という具合に動かしながら、北川があらゆることばに「花田俊典」を思い出していると読み取ってしまう。
 北川がどんなに文法を壊しても、それを読む私のなかで文法が壊れないかぎり、こういうことは起きる。作者がどんな思いでことばを書こうが、読者は作者の意図とは関係なく、読者自身の中にある文法でことばを読んでしまう。
 そして、「文法」は、「個人」のなかに存在するのではなく、「社会」のなかに存在する。「社会」が継承している。どれだけ支離滅裂なことを言ってみても、それは「支離滅裂」という「文法」の枠に収められてしまう。文法は壊れないのだ。

 北川が真に向き合っているのは、その読者の中にある「文法」である。「社会」のなかにある「文法」である。
 「文法」を壊さないかぎり、新しい「真実」はことばとして定着しない。
 「文法」は、私たちの意識を一定の方向に制御している。制御された意識は、「文法」が成立することで隠しているものを、永遠に見ることはできない。

 北川は、「文法」が隠しているものがあると感じている。「文法」を壊せば、何かがはっきりすると感じている。そうした「感じ」を共有してくれる読者、そして創作者を求めている。たとえば花田俊典がそのひとりであったかもしれない。北川が関係している(関係した)いくつかの同人誌の仲間がそうであったかもしれない。

 こう書きながら、私は少し、いやかなり、切なくなってくる。
 北川のやろうとしていることはとてもおもしろい。しかし、私には「おもいしろい」という感想がふーっと浮いてきて、実際に私自身の「文法」が壊れるということが起きない。
 「文法」を壊さないとだめなのだ、という北川の主張はとてもよくわかる(つもり)が、「文法そのものをこわさないとだめ」ということば自体が「文法」のなかにおさまってしまう。私の感想は、北川を「文法」に閉じ込めてしまうのだ。

 読めば読むほど、そして北川の主張がわかればわかるほど(これも、私の一方的な思い込みだが)、「文法」が強固なものになっていくのを感じる。どんな無軌道なイメージの氾濫も、それを「意味」として縛りつける「文法」がありうるのだ。
 もしかすると、北川の詩を心底理解しているのは「北川の詩はでたらめでわからない」という読者かもしれない。「わからない」のは、その読者の「文法」が北川のことばによって破壊された結果である。「文法」が破壊されないかぎり、つまり北川の奔放なイメージの暴力を「文法」が飲み込んでしまうかぎり、永遠に「文法」は生き続ける。

 こうしたことは北川自身、深く自覚しているようでもある。

花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花田さぁーん。壊れ
るのは文法ではなく身体です。

 私たちは次々に身体的に壊れる。つまり死ぬ。私たちの肉体は継承されない。しかし、「文法」は継承され、「社会」を支え続ける。「社会」のなかに「文法」は生き続ける。



 たぶん、「文法を壊す」という方法で北川の詩を読むことは間違っているのだ。
 「文法」は壊れない。壊れないものを乗り越えるには、「新しい文法」を作らなければならない。「新しい文法」によって、それまでとらえることのできなかったことばの運動を明確にすること、ことばの運動にエネルギーを与えること。そういう視点から、北川の詩は読むべきなのだ。
 北川は「夢を語る」ということをとおして「新しい文法」を手さぐりしているのである。            (この「日記」はあすにつづく)


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